弁証法批判 Against the Hegelian and Marxist Dialectics

目次

弁証法批判

ヘーゲル、そしてマルクス及びその追随者による「弁証法」の神秘化を批判する。

存在論、認識論を中心として自然科学及び社会科学の基礎とすべき一般的な諸前提を明らかにする。

「哲学」とは多義的な概念である。哲学者たちは、それぞれの「哲学」概念の下に、様々に世界を解釈してきた。客観と主観、実在と観念、身体と精神、神と人、客体と主体、偶然と必然、これらの対立はなぜ論じられてきたのか。

確かに、大切なのは世界を変えることである。しかし、そのためにこそ、人を含めた世界を貫く諸連関と運動、その把握の方法を解明しなければならない。

人が所与として与えられた不条理を生きる中において真理と当為を発見するための、死んだ「教義」ではない、生きた、方法としての「弁証法」を再発見する、それがこの稿の目的である。

2023/11/13、2024/04/14、記す。以降、順次掲載予定。

序論 矛盾とは何か

「矛盾」は実在するのか、あるいは、それは認識過程において立ち現れ、解決されていくものなのか。ある事物がAであり、かつ、非Aである、そのことをそのまま「肯定」する「弁証法的論理学」は成立可能なのか。マルクスの追随者たちは、しきりにこのような「弁証法的論理学」の必要性を主張してきた。しかし、それは現れる気配すらない。

矛盾は、事物の概念的な把握の過程において、すなわち認識過程において生じ、解決されるものだからである。矛盾とは、諸連関と運動の中にある諸事物が、人が実践の過程において切り取る、ある法則系において、静止的・孤立的に概念化される方法によってしか認識され得ないこと、そのことによって生じる。そしてそれは、認識の進展によって解決されていく。

「弁証法」とは、このような認識過程の自覚に基づき、概念の孤立化・静止化のもたらす誤謬の可能性を意識する、そのような「方法」を意味するものと捉えられるべきであろう。そして、それこそがソクラテスやプラトンのδιαλεκτική「弁証法」の真に持つべき意義にほかならない。それは真理を発見する方法なのである。以下、未整理の、生成途上の草稿にとどまるが、この点を諸著作の紹介と批判によって明らかにしていきたい。

(以下、序論として、弁証法に関し、ヘーゲル及びマルクス並びにその追随者によって盛んに論じられる「矛盾」とは何かを論じ、「弁証法批判」の序文とする。それに続く論述は、このノートに目次を記載するにとどめ、それぞれの項目について別ノートを作成する。)

渡邊啓 認識論と弁証法

December 5, 2020 ;

渡邊啓; 認識論と弁証法;

はしがき、あとがき、「ラッパとトウフの矛盾論」を読む。

弁証法が何よりも認識の方法であり、ヘーゲルの弁証法は、そのような認識過程を実在に持ち込み、概念の自己運動として描くものであることを鋭く指摘する。すべての差異は矛盾であるとの毛沢東矛盾論の記述を金科玉条として得々と解説する寺沢恒信の議論を完膚なきまでに論破している。

毛沢東とカント、毛沢東とヘーゲルの内容的にほとんど変わらない各論述を対比して見せ、マルクス主義に依拠する「哲学者」たちが認識過程の弁証法の解明を怠っていることを指摘する。

著者によれば、その根底には「反映論」の意義を単純化し、認識主体による抽象と総合の過程を捨象し、実在と認識の素朴な対応を前提とする態度があるという。これら哲学者は、それゆえヘーゲルの客観的観念論と同じ誤りに陥っている。すなわち、ヘーゲルの客観的観念論を単純に逆立ちさせるだけでは足りないのである。この指摘は極めて重要である。

なお、あとがきには、以上の立場を敷衍した、本書発刊、1969年当時における、客観的弁証法批判が簡潔にまとめられている。そこには、「哲学者」たちが科学的認識の理論を深めるのではなく、むしろ、その外の世界の直接的解明を目指していることに対する率直な批判も記されている。ポスト・モダンに対する著者の抗議ということができよう。

三浦つとむ、弁証法とはどういう科学か、については、友人森下周裕の言を紹介する。いわく、「この本は、弁証法について、どのひき出しにはノコギリが、どのひき出しにはドライバーがしまってある、というように、弁証法のいろいろな道具のありかが書いてあるような気がする。だけど実際において大切なのは、どの場面ではノコギリを使い、どの場合ではドライバーを使わねばうまくゆかないか、ということを知ることではないだろうか。」と。著者は、「…この本は、明らかに従来の客体的な弁証法の解説書とは違った、生き生きとした弁証法の解説となっていた…」と評価するのではあるが。

労働、すなわち肉体的(物質的・客体的)かつ精神的(認識)な活動が人の生活の再生産を可能にしていることから出発し、その実践における認識過程に弁証法の論理を見る(認識活動がその時々の制約を免れないことの指摘、認識活動の成果が歴史的に蓄積されることの指摘もある)。このような認識の進展を客体の運動の中に持ち込み、客観的なものとは言え、概念の自己運動を見る考え方を弁証法の物神化として攻撃し(「神秘的弁証法」の言葉も用いられている。単純な反映論がその基礎にあり、ヘーゲルの観念論をそのまま逆立ちさせたものだとの批判も加えられている)、111においては、三浦つとむの調和矛盾の主張をこのような物神化の一例として批判する。

松村一人についてもそのプレハーノフ批判について同様に論じている。108には、生産関係と生産力の衝突という言い方も比喩的なものであって、現実には、諸階級の利害に基づく闘争とその結果があるのみであるとの説明もある。しかし、弁証法的論理学の存在は認めるようであり、それと形式論理学の併存を説くかに見えるのは、理論の徹底に欠けるのではなかろうか。

弁証法的な認識過程が概念の自己否定性(スピノザの「規定は否定である」との言をしばしば引用する。マルクスもこの引用を行っているようである)によることを指摘するのは正しいが、その反省によって得られ、実践によって検証されるのは、科学的法則性あるいは科学的法則的把握の有効性(以上を含め、私見による要約。著者がしばしば言及する「感性的」なものと「超感性的」なものの二重規定性は、この見地からのみ理解できるもののように思われる。なお、一般に用いられる「法則性」の概念は、容易に物神化され得ることに注意が必要であることの指摘がある(190付近)。法則的把握、の語を用いるべきか)であり、その法則は形式論理学によって記述されるのではなかろうか。松村一人批判には、そのような思考が現れているようにも思われるが、その後を読むと、矛盾律の否定が弁証法であるかのような記述も見られる。更に読めば、一貫した論理があるのかもしれないが、混乱しているように感じられてならない。

126においては、毛沢東の矛盾論における記述を前提とした説明がある。矛盾の主要性・副次性が主体の関心によって決定されるというのは、それはそれで正しいが、同決定の実現可能性を支配する法則への言及がない。抽象と総合の認識過程が客体の変革を目的とする法則の認識を目指して行われていることが十分に把握されていない印象を受ける。

128には、「ひとことでいえば、弁証法は関係の論理であり、主体における反省の上に形成される論理である。」との要約があるが、そうだとすれば、それは、「論理学」なのではなく、実践を中核とする人の認識活動の科学的把握に基づく自覚的な思考の方法と考えるべきではないのか。

サルトルの弁証法的理性批判については、マルクス主義者の、実践を考慮しない独断を批判する、その出発点を評価しながらも、結局は、ヘーゲル歴史哲学に述べられる「存在の弁証法」すなわち超越的な主体あるいは神を肯定するものであると批判する。

言語論においては、ソシュールのラングを人の意識活動の客体化による人の交通という観点を欠いた人為的構成物であるかのように批判するが、ソシュールがそう考えていたのかは甚だ疑問である。時枝誠記?の議論に安易に依拠しているかに見える。時枝そして三浦つとむについても批判するが、やや細部の揚げ足取りとの印象を受ける。

言語が類としての人間の社会的活動から生まれたという指摘、文字等の記号によりその蓄積がなされているという指摘は正しい。スターリンの超階級的なものとしての言語の主張については、このような社会性を見ないものとの批判がなされている。言語が自己否定性を帯びていることの指摘は、重要である。人間の主体性については、主体の行動を含む歴史過程そのものに法則が見出されるべきこと、それゆえ「自由は必然性の認識である」(レーニンがしばしば言及したという)ことが述べられ、黒田寛一らの、自由に法則を創り出す主体としての人間との主張に反対する。

竹谷三男の科学的認識の発展の三段階論と技術論への言及もあり、前者は肯定的に論じられているが、本質の概念を実体化することに反対する。偶然と必然に関する深い考察を期待したが、それは見当たらない。

以上、かなり詳しく読んだが、観念体、科学の社会性、偶然と必然、認識過程の弁証法の具体的内容、法則の認識との関係等に関する明快な説明がないとの感想を抱く。論述がヘーゲル的な範疇に大きく依存していることにもよるのであろう。著者は東大・自然弁証法研究会に所属したとのことであり、本書の内容はその当時の思索に大きく依存していることが、このことからも窺われる。主体と法則の問題に関しては、関根克彦が引用されている(184)。著書があるのだろうか。本書は、1970年刊。所収論文は、1959年初出。著者は、1931年生まれの自然科学者。高分子物理化学専攻。

岩崎武雄 弁証法

..Date: 2015.11.07;

岩崎武雄;

弁証法、岩崎武雄著作集第一巻所収;

存在の中に矛盾律を破る矛盾が内在することはない。すなわち、存在の弁証法は存在しない。運動が有及び無の矛盾であるとの見解は、矛盾律が、Aが「同一の関係」において「同時」にB及び非Bであることはないというものであるのに、その「同一の関係」という条件を無視したものにほかならない。それは、「見せかけの矛盾」にすぎない。

思惟は、矛盾律に従い、これによった上で、事物を、その構造と運動を、認識する。有と無をめぐる議論について述べれば、それは、有及び無という抽象的な概念によっては運動をとらえられないこと、運動の具体的な把握には、更に高次の概念が必要であることを示しているにすぎない。また、量から質への転化の法則と言われるものは、量的な連続的変化が質的な飛躍的変化を生じさせるという現象を述べたものにすぎず、そこにとどまるならば、その飛躍的変化の本質の探求を妨げるだけである。

一方、弁証法は、思惟にこそ妥当する。しかも、それは、人間の認識の有限性を前提にすれば、思惟の必然的な発展の仕方である。人間の認識は、抽象的な概念から具体的概念へと発展し、その過程において、矛盾の認識とその克服による高次の認識へという経過をたどる。そして、当為の世界にもこのような弁証法的発展がある。

本書は、1954年に初版が発行された。すばらしい。矛盾に関する私見と同様の内容を明快に説いている。ただし、疑問点がないわけではない。

その1は、認識と当為の区別であり、著者は、認識そのものが実践を媒介として弁証法的に発展することを把握しておらず、実践を専ら当為の問題としている。

その2は、マルクス主義に対する評価において、エンゲルスが明確に存在の弁証法の立場に立つと述べている点である。エンゲルスは、哲学の終焉と個別科学の発展を主張した。しかも、その述べる弁証法の三法則は、いわば発見の論理として主張されているにとどまると解することも可能のように思われる。エンゲルスの著作には、少なくとも邦訳を見る限り、「対立」という言葉は頻繁に使われているが、「矛盾」という言葉はさほど使われていない。これらの点は、エンゲルスの著作をそのドイツ語・英語原文を含めて、子細に検討して、解明する必要がある。

また、著者は、存在の弁証法の立場が社会発展法則を単純化・客観化し、人間の主体性を軽視していると説く。この点は、存在の弁証法それ自体の問題ではないと思われる。社会発展における人間の行動の役割は、存在の弁証法を肯定するか否定するかには直接に関わらない別の問題である。もっとも、存在の弁証法が見せかけの矛盾をそのまま示し、それ以上の深い認識を妨げたという意味においては、正しいのかも知れない。

著者のヘーゲル論は、このような認識の弁証法の理論によっており、ヘーゲルは、有限者と対立する絶対的無限者を想定せずに、議論を進めているのであり、一見すると存在の弁証法のように見える部分も、実は、事物の具体的把握を目指した認識の発展を論じているのだという。観念は、人間の認識から独立に存在するものではなく、あくまで人間の認識から生まれる。しかし、一方、ヘーゲルは、絶対精神の発展として歴史及び哲学の発展を把握した。ヘーゲルは、ここで、有限者に対立する絶対的無限者の存在を認めたため、絶対的無限者の自己展開(抽象的独断に基づく演繹)が論じられるに至ったのだという。

私見 論理的矛盾と現実的矛盾 『矛盾論』批判

1 論理的矛盾は,運動を記述する場合に避けられないか。これに関する論争がある。
 この問題は,認識の過程的構造を自覚して初めて正しく解決されるのではないか。すなわち,運動を記述する場合に論理的矛盾が生じるのは,一時的・過程的であり,その矛盾の解決によって,より深い運動に関する認識が得られ,それは,論理的矛盾を含まない新たな概念によって把握されるのである。
 例えば,アキレスと亀のパラドックスは,時空を瞬間とその瞬間における静止的位置においてとらえることの限界を示しているのであり,その論理的矛盾の解決は,無限数列の収束と発散や速度の概念の導入によってもたらされる。牧野広義は,運動の記述が論理的矛盾なしになされ得ることを主張する点においては正しいが,このような認識の運動を意識していない点において不十分である。
 したがって,論理的矛盾は,実在の運動(他との連関も広い意味では運動の概念に含まれるであろう)の法則性を認識する過程で一時的(他との連関を把握しない部分性も,広い意味では一時的の概念に含まれるであろう)に生じるものであり,弁証法とは,このような認識の過程を自覚した,認識の方法であるということができる。
 概念規定は,確定性を伴う。しかし,その確定性は,常に一時的である。その自覚とは,したがって,概念規定の自己否定性の認識を意味する。量から質への転化,否定の否定,対立物の相互転化,相互浸透等の,弁証法においてしばしば言及される概念は,このような自己否定性の類型を示したものということができよう。実在の過程的な構造すなわち過程-構造-過程の概念も,同様のものと考えることができる。

2 それでは,現実的矛盾というものが存在するのか。
 それは,実在しない。現実に矛盾が存在するというのは,認識の方法である弁証法をそのまま実在に持ち込むものであり,いわばヘーゲルの方法の悪しき影響によるものである。現実に存在するのは,運動の法則性である。それを認識する方法が弁証法であり,矛盾は,その認識の過程で生じる論理的矛盾にほかならない。
 構造は,過程の中にある。運動を認識するためには,概念規定の確定性が自己否定性を伴うものであることを認識し,既存の概念規定を破る運動の法則性を解明しなければならない。方法としての弁証法によって運動に関する一層深い認識が得られ,これに基づく実践が可能になる。認識された自己否定性は,矛盾と表現されることがあるが,実在の中に矛盾が存在するわけではない。概念が自動的に運動するのではなく,あくまで実在が,ある法則性に従って,運動するのである。
 仮に,このようにして認識された法則性の中で,運動の動因と経過を,根本矛盾,主要矛盾,主要な側面の相互転化等と名付けるにしても,それらは,すべてその法則性の認識から導かれるべきものである。このような法則性の解明なくして,これらの概念を恣意的に用い,しかも,その「解決亅すなわち運動を「力関係亅の変化によるものであるかのように描き出す「矛盾論亅は,情勢の主観的評価をいかようにも可能にする,道具としてのイデオロギーというほかはない。そのことは,今や歴史的にも明らかである。

毛沢東 矛盾論

..Date: 2015.01.02;2014/10/29 11:31、

毛沢東(毛沢東自身が書いたのかについては疑問なしとしない。本書には、レーニンの哲学ノートからの引用が多く見られるが、当時中国語で同書を読むことができたのだろうか。また、編集者の序の表現にもやや曖昧な点が見られる);

矛盾論(岩波文庫版と記憶);

全体的批判。意思から独立した存在としての物質の運動を認識すること、そして、その運動の一部としてのイデオロギー的諸関係の中で自由に行動すること、このような非イデオロギー的諸関係とイデオロギー的諸関係の連関が正確に把握されず、イデオロギー的諸関係、特に階級闘争の部分が他との連関を十分に考慮しないまま取り出されて、運動の動因である「矛盾」が闘争の戦略・戦術の見地から強調される。したがって、そこに生じるのは、矛盾の主観主義的な評価であり、主要な矛盾、主要な側面等が恣意的に選び出される。そのような選択がどうして正しいのか、その基準はどのように与えられるのか(歴史的社会構成体の歴史的な運動法則)は、明確にされないままである。

なるほど、最初の部分には、マルクスやレーニンからの多数の引用があり、矛盾の必然性が説かれているのであるが、上述の諸関係の相互関係についての明確な論述はなく、また、終わり近くの中国の現状への当てはめを中心とする根本矛盾論、主要矛盾論、主要側面論では、結局のところ、両側面の「力」の強弱、その均衡と変化が説かれているのみである。これが大躍進及び文化大革命の誤りの哲学的基礎をなしていることは、明らかである。

なお、根本矛盾論では、民族矛盾と階級矛盾が対比され、ある時期には民族矛盾が、それが解決されるならば階級矛盾がそれぞれ根本矛盾となるとの説明がなされる。しかし、他の場所で触れられているとおり、両矛盾の各側面は結びついて民主主義の実現を妨げているのであり、このような根本矛盾の段階的分離論は、民族主義的偏向を生みかねない(森信成の予言者的指摘)。

中国の現在の覇権主義の哲学的基礎の一つは、このような矛盾の恣意的分離にある。

以下、問題点。p38、39:「矛盾の解決の方法」!事物内部の矛盾が発展の動因であることから、両側面の一方の強さ・弱さを問題にする。しかし、その強さ・弱さを規定する矛盾の連関と歴史的な運動法則への言及はない。エンゲルスのドイツにおける革命と反革命?における指摘を見よ。

p43:すべての差異は矛盾であるというが、そうなのか。いわゆる調和矛盾が無視されていること。

p48:矛盾相互の連関は?民族矛盾と階級矛盾の連関等、矛盾の連関を知り、総体的・歴史的な運動の必然性を知らなければ、主要な矛盾の主要な側面を判断することはできないであろう。

p50ー52:このあたりに矛盾の連関、事物の全体性・客観性の主張があるのであるが、十分ではない。

p58付近:結局、政治勢力の連関に尽きている。

p64:そして、矛盾の各側面の「闘争力」が問題にされ、主要な矛盾の主要な側面が必ず「決定的な力である」と主張される。イデオロギー的諸関係における主体すなわち人間がその意識から独立して存在する客観的実在によって規定されていること、このような被規定性に関する議論は全く抜け落ちている。

p68、69:土台と上部構造について、上部構造における矛盾が決定的な働きをする場合があるという。しかし、その場合であるかどうかを決定するものが何かとの議論や視点はない。しかも、その働きを「反作用」と述べているが、それは、土台の変化の必然性を実現するのであって、土台における「矛盾」との連関における作用であり、単純な外力ではない。文化大革命の誤りの基礎がここにもある。

p69、70:不均等な発展が運動の動因をなすかのような論述。何を言いたいのか。並列的なものの不均等な発展が運動の原因ではない。運動の原因は、事物の内部の矛盾である。

p:73:対立物の同一性、相互転化、相互浸透は、同じものであるという。しかし、これらは、弁証法の一部をなすという意味においては同じであるが、それぞれ違ったことを意味するものであろう。特に相互浸透の概念をよく考える必要がある。

p82:敵対矛盾かどうかの判断の恣意性。そもそも敵対矛盾というのは、どのような概念なのか。政治闘争における方法の違いなのか。

<以下、矛盾論を読んだ際の当初のメモ。1矛盾の連関の軽視。特に、非イデオロギー的関係とイデオロギー的関係の間の連関の軽視。非イデオロギー的関係における矛盾を認識し、闘争する、という言葉(経済学批判序文にあったか?)の意味。2継続性を持った、存在自体がその解決である矛盾(調和矛盾)の存在(もっとも、調和性と闘争性の両側面があることは間違いがないが。なぜなら、永続するものは存在しないから)を把握していないこと。あるいは、それを軽視していること。3非敵対的矛盾とは何か。その評価の恣意性。大粛清の必然性。4これらからの帰結。永続する、イデオロギー的関係における闘争矛盾の即時的解決が、無階級社会が実現(?)するまで、あるいは、その実現の必然性がないならば、永久に、志向される。「矛盾を認識し、これを闘い抜く」という言葉がこのような理論枠組の中では正当に位置づけられない。>

森信成 毛沢東「矛盾論」「実践論」批判

..Date: 2015.01.02;

森信成;

毛沢東「矛盾論」「実践論」批判;

実践論については、それが「実証主義」「経験論」に堕していると批判する。実践の主体が人の意識から独立に存在する実在に規定されていることを見ていないこと、すなわち、自由と必然の弁証法をとらえていないことを批判するものと解される。

矛盾論については、同様の見地から、意識から独立した存在の矛盾が意識を規定すること、社会構成体においては土台が上部構造を規定すること、このような連関を無視して、政治すなわち階級闘争の場面のみに着目していること、そこにおける矛盾の解決が闘争における均衡と勝利に単純化され、しかも、その矛盾の運動が恣意的に評価され、いわば具体的な戦術論に解消されていること、したがって、矛盾の認識と評価が著しく主意主義的なものになっていること、これらを批判する。

特に、p.33においては、生産力と生産関係、土台と上部構造に関する矛盾論の論述を引用して、これらの両側面が内容と形式の関係にあること(p.40で詳論)を正確に理解せず、それらの相互関係を恣意的に解し、「場合」に応じて、上部構造における矛盾が「主要」なものになる(?要確認)と論じていることを批判する(p.31)。

また、根本矛盾に関し、民族矛盾(反帝国主義)と国内階級矛盾(反封建主義)の結びつきを理解せず、それらがいずれも民主主義を目指す上での課題(帝国主義は、国内支配階級と結びついて民主主義の実現を妨げる)であることを把握していないと批判する。

本書は、1965年刊であるが、文化大革命やその後の新帝国主義化をおそろしいほど見通している。すばらしい。著者は、1914年生まれ。早くから、「マルクス主義」における民主主義と自由の正確な理解と位置づけが必要であることを説いていたようである。興味深い。

牧野広義 弁証法的矛盾の論理構造

..Date: 2014.12.28;141117,

牧野広義;

弁証法的矛盾の論理構造;

150付近の資本主義の基本矛盾に関する論争を読んで。

マルクス,エンゲルスらによる,生産の社会的性格と所有の私的性格の矛盾という定式を理解するには,その両者がどのような意味で依存し,排除するのかを具体的にとらえる必要がある。私的資本の発展は,ますます大規模な生産活動を生み出し,生産の社会的性格を一層強める。そして,そのような社会的大規模生産は,ますます資本の蓄積を進める。このような循環的過程は,しかし,一定の制限を持っており,絶対的・相対的貧困化と恐慌,生産力の主要要素である労働者の反抗を招き,新たな生産関係が築かれる。それは,生産関係における対立を強め,その変革をもたらす。これらがその主張である。しかし、その理論の内部においても,資本主義の自己否定性としてとらえられる「矛盾」は,重層的であり,相互に対立物の内部における対立を強めるという意味において,相互に浸透している。

したがって,彼らの理論においても,いわゆる「階級闘争亅はその一部分にすぎないはずであり,しかも,それは,他の矛盾と相互に密接な関係を持って,それらを規定するとともに,それらに規定されているのであり,根本矛盾や主要矛盾として,恣意的に取り出されるべきものではない。ましてや,階級闘争の両陣営の力関係の帰趨に帰着させること,その転換に矛盾の解決,すなわち矛盾の両側面の相互転化を見ることは,単なる現象論にすぎず,それが「決定的亅であると主張するのであれば,それは,恣意的な主意主義であり,また,それを政治的・軍事的戦略・戦術論として主張するのであれば,「哲学」の一般理論を政治・軍事理論に直結するものであり、その限界を認識しないものと言わざるを得ない。

なお,矛盾論批判は,56以下であり,次のようなドグマを指摘している。内部矛盾のドグマ,対立のドグマ(論理的矛盾を区別しない),差異のドグマ(差異とは矛盾である,との驚くべき指摘の批判),根本矛盾と主要矛盾の関係があいまいであり,主要矛盾の解決が根本矛盾の解決に結びつくことを明確に指摘していないこと,矛盾の同一性,相互転化,相互浸透等をすべて,両側面の闘争による転化に解消し,その他の矛盾との関連を単なる条件にしていること(条件次第のドグマ)。

..Date: 2014.12.28;141117;

最初の要約部分を読む。認識活動で直面する「論理的矛盾」を除く実在の「矛盾」は,「現実的矛盾」である。それは,確立した概念規定を前提として,それが自己否定性を内包していることを示す。したがって,それは,形式論理学を排除するものではない。このように捉えられた「矛盾」は、事物が運動と連関の中にあることを示す方法的な概念というべきであろう。すなわち、すべての概念は自己否定性を内包し、「矛盾」の中にある。そうすると、このような「現実的矛盾」の概念を維持する必要があるのだろうか。そのような概念を維持することは、無用な混乱をもたらし、弁証法の神秘化を招くのみではないか。

形式論理学は,認識に関する最も抽象的な法則である。(これは,形式論理学の限界の問題として整理すべきであろう。)なお,論理的矛盾は,認識活動すなわち認識の運動において存在し,更に深い認識の媒介となる形式論理法則違反をいう。このような論理的矛盾と対立するものとしてとらえられた現実的矛盾の定義,概念的にとらえられた実在の自己否定性という定義は,極めて明快である(ただし、上記のノートのとおり、このように定義された「現実的矛盾」の概念をなお維持する必要が果たしてあるのかは、疑問である)。そして、論理的矛盾は、このような自己否定性によって必然的に生じるものというべきであろう。

..Date: 2014.12.28;141117;

p125付近。形式論理学が実在の構造に基づくものであることを主張し,50年代の論理学論争を回顧する。世界を言葉を用いた概念によって把握する場合における論理法則,という考え方を採ることができるということであろう。その立場から,著者は,安易に矛盾の存在を肯定して,あまつさえ,論理的矛盾と現実的矛盾を混同する立場を批判する。

p150では,運動に関する「ここにあり,かつ,ここにない亅というお決まりの「矛盾亅の存在を肯定する立場を批判する。著者によれば,それは位置の連続として空間運動を把握する場合には,結局のところ,運動を静止状態の無限の連続としてとらえることに帰着すること,したがって運動の全体を記述することにはなっていないことを指摘しているにとどまるのである。著者によれば,その物は,運動の「状態亅にある。

田畑稔 マルクスと哲学

..Date: 2013.04.13;田畑稔;

マルクスと哲学;

第1章,哲学に対するマルクスの態度に関する部分を読む。なお,本書の副題は「方法としてのマルクス再読」である。マルクスの哲学に対する態度は,次のとおり変遷したという。

1.神学に代わるものとしての哲学。哲学による主意主義的変革の主張。p.70-71では,廣松渉が1994年に「日中を軸とした東亜の新体制」を主張したことを挙げ,まさにこのような哲学の立場を典型的に表すものであり,後年のマルクスの批判の対象に属するという。

2.哲学とその実現を担うプロレタリアートのブロック。

3.イデオロギーとしての哲学の放棄。ドイツ・イデオロギーの有名な言葉,「哲学者は世界を様々に解釈してきただけである」は,哲学の新たな態度の宣言と言うよりは哲学の放棄であるという。

4.ヘーゲル弁証法的把握の有用性の主張。現実的でpositiveな学による人間たちの意識的活動と実践的発展過程の叙述(ドイツ・イデオロギー1-1-33(?))(p.48-)。

三浦つとむの「哲学」の科学への発展的な解消の主張と同じものを含むように思われる。いずれにせよ,マルクスが「哲学」と決別し,科学としての政治経済学を追究したという主張であるとすれば,極めて新鮮な主張であると言えよう。

著者が,マルクス主義哲学というものなどない,マルクスは唯物弁証法などという言葉を使わなかったと繰り返し主張するのは,マルクス主義哲学という社会主義体制が創り出した公認哲学の振りまく幻想を破壊するため,まさしく必要であろう。

ベルンシュタイン 社会主義の諸前提と社会民主主義の任務 関連部分

..Date: 2009.10.13;

エドゥアルト・ベルンシュタイン,佐瀬昌盛訳;社会主義の諸前提と社会民主主義の任務,現代思想7;

<以下別ノートの抜粋>

ベルンシュタインの基本的な認識は,マルクス・エンゲルスがたびたび社会主義革命の切迫を誤認したこと,しかし,後年のエンゲルスは,このような誤認を自ら認識し,修正を試みたこと(エンゲルスの遺言),破局における暴力革命という予測は,今やユートピア的な空想であること,これである。

冒頭に,唯物史観が,最初の経済決定論的な必然性論から,後年,エンゲルスによるイデオロギーの反作用に関する強調へと発展を遂げたことが論じられる。

更に,ヘーゲル的な弁証法が現実の発展を無視した,ユートピア的発展の,すなわち,願望実現的な予測に導くといい,そのマルクスらへの影響を論じる。この点に関連し,ルクセンブルクのベルンシュタイン批判をめぐっても,ルクセンブルクの論理へのヘーゲル的弁証法の影響が論じられていることが注目される。

エンゲルス フォイエルバッハ論

エンゲルス;フォイエルバッハ論;弁証法に関する部分を読む。

本書の成立は,1886年?であり,自然の弁証法は,その準備のためのものと位置づけることもできると思われる。ドイツ・イデオロギーへの言及もあり,本書は,その内容を更に発展させたものであると述べられている。

過去のいわゆる自然哲学は,個別自然科学の発展,特に,細胞の発見,エネルギー保存法則の発見,ダーウィンの進化論の三つによってほとんどその役割を終えた。無限に前進する過程として世界及び思惟をとらえるべきことが自然科学のこれらの発展によってますます明らかになった。

社会科学においては,いまだ,ヘーゲルを始めとする恣意的な哲学的思弁が横行しているが,それもマルクスの資本論によって打ち破られつつあり,マルクスによって初めて人間社会の歴史の自然史的過程が明らかになったと説く(自然史的過程等は当方の解釈)。

ここでも,弁証法は,外界及び思惟の運動に関する一般的な法則を明らかにするものと定義されている。なお,「形而上学」は,ヘーゲルのいわゆる,として言及されており,その意義は,静止において事物をとらえることの限界を知らずに,その相対性を認識しないことであるとされている。自然科学において自然の探求がまず博物学的な(そういう用語は使われていないが)記録と分類に始まったこともこの関連において指摘されている。

ところで,三浦つとむによる事物の過程的構造を中心に据えた議論も,すべてはこのフォイエルバッハ論に発するのであろう。ちなみにディーツゲンに関する言及もある。ヘーゲル弁証法の作り変えの必要性も説かれている。したがって,レーニンは,自然の弁証法を知らなかったが,少なくともその要点に関する限りは,このフォイエルバッハ論によって十分な知識を得たはずである。

エンゲルスをスペンサーらとともに科学・産業革命の時代の思想家としてとらえ,その思想の意義と限界を明らかにする著作,エンゲルスの思想とその時代,を構想することができる。

エンゲルス,そしてマルクスの誤りは,資本主義の限界を,プロレタリアート革命を待望するあまり,著しく単純にとらえたことであろう。あるいは,スペンサーとエンゲルス,科学産業革命の思想家,といった表題が適しているだろうか。

なお,末尾のいわゆるフォイエルバッハ・テーゼは,資本論以降のマルクスの思想を断片的に示したものであると考えられているようである。これらのテーゼの含意は必ずしも明らかでないが,いわゆる初期マルクスを称揚する立場とは相容れないものであろう。抽象的人間の抽象的疎外を論じても,社会を変革することはできないのである。

エンゲルスは,社会の運動が人の意識を媒介にしていることも指摘している。いわゆるイデオロギー的諸関係の理論は,これに基づくものか。

エンゲルス 自然の弁証法

エンゲルス;自然の弁証法(岩波文庫)

P.15に,弁証法の定義らしきものがあり,世界の運動の最も一般的な法則を明らかにするものであると述べられている。しかも,例によって,ギリシャ哲学が弁証法の最初の歴史的形態として挙げられている(さらに,アリストテレスがそれを体系的に論じたと述べている。この点は,アリストテレスの著作とそれに言及したエンゲルスの論述によって,今後研究する必要がある)。

岩波文庫版の末尾に各断片の著述時期の一覧表があり,その最も晩年のものから読んだところ,上記論述を発見した。これは,1882年(だったと思う。いずれにせよ1880年代)の断片である。この論旨は,哲学が個別科学にその道を譲ったこと,なお哲学の役割があるとすれば,それは思弁によって,実験・実証の方法を補完し,全体的な見通しを与えることであることなどの,別の箇所にもしばしば見える見解に基づくものであろう。

したがって,量から質への転化,否定の否定,対立物の相互浸透という有名な列挙は,弁証法の単純化・教条化などと非難されるべきものでは毛頭なく,むしろ,エンゲルスが哲学と個別科学の役割の相互関係を真剣に考えて,その結論として示したものと考えることができる。

この関連で注目すべきであるのは,自然の弁証法の全体を通じて,対立物の統一と闘争といった定式が見当たらないことである。(正確には,再読の上検討のこと)。そもそも,エンゲルスにとっては,現実的矛盾などという概念そのものがなかったのであろう。問題は,法則性の解明であり,少なくとも自然の法則性に関しては,哲学の役割はほとんどなくなったのである。

もっとも,社会科学は依然として未発達であったが—(しかし,なお,エンゲルスが哲学の役割を過大視し,社会科学の諸成果をブルジョア科学であると「哲学的」見地からあざ笑うのは,彼の共産主義に対する信仰によるものといえよう)。

巻末のソビエト時代の解説によれば,レーニンは,本書を知らなかった。同解説は,それでもなお,レーニンはエンゲルスと同一の結論に達しているという。このことの著作に即した検証は,実り多い成果をもたらすであろう。それにしても,この解説の美辞麗句には驚きを覚える。

弁証法的思惟としての仏教及びギリシャ哲学という指摘がある。しかも,繰り返される循環的変化(これを悪無限と称している)ではない,真の無限性への言及がしばしばなされている。

そうすると,エンゲルスのいう弁証法とは,徹底した唯物論の立場のことであって,唯物論を徹底すれば,世界は通時・共時的に無限であること,これを弁証法と称して,その方法によって,科学による探求の方向に一つの見通しを与えようとしたもの,すなわち,仮説構築のための方法を示そうとしたものととらえることができるのではなかろうか。

そして,その弁証法は,17世紀科学革命,18世紀産業革命等を経た自然科学の飛躍的発展(特にダーウィン進化論)に基づく科学的な世界観を唯物論の立場から徹底したものにほかならなかった。

そのエンゲルスの信奉者たちが今や単なる教条を信仰する集団に堕しているのは,いかにも悲劇的である。しかし,一方,エンゲルスの論旨を追うと,ヘーゲル的な概念を殊更に(その観念論的把握を批判しているとはいえ)称揚している部分がないとはいえない。それは,共産主義の必然性をエンゲルス自身が信仰せざるを得なかったことに基づくのではなかろうか。ヘーゲルの神秘的概念が信仰を救うのである。

以下は、エンゲルス;自然弁証法(抄)ワイド版世界の大思想「エンゲルス社会・哲学論集」の引用とその評価である。

自然の経験科学的探求は,その個々の領域の体系化及び他の領域との相互の関連付けを必要とするが,そのためには,経験の方法は役にたたず,理論的思惟だけが役にたつ。そして,それは,全体との連関と運動を把握するための「思惟形態亅である弁証法によってなされる。

どの時代の理論的思惟も,歴史的産物であるが,これまでのところ,弁証法は,「アリストテレスとヘーゲルとによってやや詳しく研究されただけである。亅しかし,「弁証法こそが,現代の自然科学にとって,もっとも重要な思惟形態なのである。なぜなら,弁証法だけが,自然のうちに生じている発展過程にたいして,諸連関の総体にたいして,一つの研究領域からべつの領域への移行にたいして,類推を提示し,したがってまた説明方法を提示するからである。亅

弁証法は,歴史的に二つの「形態亅で与えられている。一つはギリシャ哲学であり,もう一つはドイツ古典哲学である。ヘーゲルの体系は,観念論に基づき,かつ,恣意的である。しかし,それを引き去っても,弁証法は残る。マルクスが資本論において「この方法を経験科学である経済学の諸事実に適用した亅。

自然科学者は,自然科学上の諸発見の力だけでいずれ「弁証法的思惟亅に回帰することができるかもしれないが,歴史的に存在する弁証法的思惟を学ぶことによって,この過程を大幅に短縮することができる。マルクスが述べるように,「弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は,彼が弁証法の一般的な運動諸形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを,けっして妨げるものではない。弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外被のなかに合理的な核心を発見するためには,これをひっくりかえさなければならない。亅(349ページ以下)


以上がエンゲルスの見解である。エンゲルスは,邦訳を見る限り,対立という用語は用いるが,矛盾という用語は用いていない。

(この点の確定には、独語・英語の表現を子細に検討する必要がある。なお、有名な弁証法の3法則を列挙した自然の弁証法のⅡ章「弁証法」の英訳を見ると、opposites(Gegensätzeの訳語)の言葉はあるが、contradictionの言葉はない。また、独語版のこの章にも、widerspruch及びこれに関連した語は見当たらない。少なくとも、自らの思想を語る際にcontradictionの概念を中心に論じたことはない、と考えてよいのではないか。この章の英文冒頭を改めて読み、以下の説の正しさを再確認し得たと思う。)

エンゲルスにおける哲学の役割は,経験科学に対してあくまで補完的なものであり,しかも,弁証法とは,歴史的に存在する「思惟形態亅なのである。矛盾が自己運動するかのような,哲学的把握が個別科学を不要とするかのような見解が無縁のものであることは言うまでもない。弁証法とは,思惟の方法の形態なのである。したがって,それによる「類推亅が発見の手がかりとなる。そして,その発見は,あくまでも実証によって,当否が判断されなければならない。

三浦つとむ 毛沢東主義

三浦つとむ;毛沢東主義;


社会革命の法則性が分析されず,その帰趨が主体間の闘争すなわち「矛盾」の両側面の「力関係」に解消されること,これこそが問題の核心である。もちろん力関係が無関係なのではない。しかし,それは他との連関のうちにあって,運動の法則性の一つの局面にすぎないのである。


したがって,毛沢東の誤りは,三浦の主張とは異なり,真理が一定の限度を超えると誤謬に転化すること,すなわち真理と誤謬の弁証法を知らないことにあるのではない。矛盾なるものの両側面の転化の条件を探求する個別科学の重要性を軽視し,力関係の直観とそれを正当化する神秘的な「弁証法」に依存することが誤りなのである。このような三浦による批判の不徹底性は,三浦つとむの哲学者的限界に基づくものであろう。運動が矛盾概念の自己運動であるかのようなヘーゲル的理解を超えられないのである。したがって,いわば共時的な構造に基づく循環的な運動を,矛盾の存在がすなわちその解決である,調和する矛盾と名づけざるを得ないのである。哲学は,個別科学にその地位を譲ったはずであるのに。


三浦つとむも,ある部分では弁証法が認識の方法論であることを主張している。問題は,これを徹底していないことである。すなわち,45ページには,弁証法が思惟法則であること,形而上学に基づく形式論理学も否定されるべきものではなく,その限界を認識する必要があるにとどまること,これらがエンゲルスからのすばらしい引用とともに指摘されている。エンゲルスは,さすがである。しかし,三浦は,その後の資本論の論述に基づく例証において,調和矛盾を含めた現実的矛盾の存在を肯定している。しかし,このような矛盾は,もはや矛盾律に背くという意味における矛盾なのではない。それは,思考が論理的な矛盾あるいは矛盾の萌芽を克服して到達した客観的法則にほかならない。現実的矛盾なるものは存在しない(三浦は現実的矛盾という用語は用いていないが)。三浦のいう調和矛盾とは,事物が一定の構造を持ち相対的に共時的な運動をしている状態にあることをいうものにすぎない。三浦もいうように,現代の科学は,哲学の地位を奪ったのである。もっとも,社会科学は,自然科学にいまだ遠く及ばす,それゆえに神秘的な弁証法が論じられるのであるが。三浦も,この問題を意識してか,矛盾の定義を試みているが,成功にはほど遠い。事物の自己否定性という明確な定義も与えられていない。


このような三浦の限界は,その自由意志論にも関連があるに違いない。人の自由意志をも包摂し,相互に浸透する,社会の必然的な発展法則という概念を三浦は拒否するのであろう。これが,発見の方法としての弁証法とこれによる社会発展法則の認識という論理的道筋から三浦を遠ざけているものと思われる。


なお,三浦は,量から質への転化,対立物の相互浸透,否定の否定という,エンゲルスの定式を肯定し,特に対立物の相互浸透を重要視して,その例証を資本論の生産・消費の相互関係に関する論述に求めるが,読んでも,さっぱり理解できない。相互浸透の定義がどこにも与えられていないのである,少なくとも今回読んだ限りにおいては。


いずれにせよ,三浦の論述は,次々と批判なるものを繰り出すが,その各々がどのような重みを持って他と関連しているのかを明快に示すことがなく,理解が容易でない。客観的法則の認識における誤謬の前の「哲学的亅な誤りを指摘することに急なため,前者の誤りまでが後者の誤りに強引に帰せられる傾向がないではない。例えば,真理と誤謬の弁証法を知らないからである,という論法である。多くの誤りは,このような弁証法を知らないから生まれるのではなく,科学的な分析を怠って,主観的な評価を絶対視することから生まれるのである。このような傾向は,むしろ,科学的態度の欠如と評価すべきものであろう。三浦は,経験主義的教条主義という用語を用いているが,おそらくは,その真の意味は,以上述べたことであろう。

不破哲三 自然の弁証法

不破哲三;『自然の弁証法』‐エンゲルスの足跡をたどる;

自然の弁証法の成立史に関する最近の文献学的研究(最新の全集版)に基づいたもの,横縦の感を免れず,それに対する弁明じみた論述もある(弁証法について考えていることはあるが,エンゲルスの足跡をたどることを主眼とする本書の限界を超えるという)。

ところどころにコメントらしきものがあるが,自然の無限性や,人間の認識の無限の前進など,決まり文句的なものに終始している。

ただし,174ページ付近で毛沢東による弁証法の単純化を指摘している部分は意味がある。著者の考察の片鱗を示すものか,あるいは,この程度なのか。この174ページ付近では,反デューリング論の,弁証法がデューリングのいうような「証明」の手段ではなく,あくまで既知から未知を解明する方法であり,その点では形而上的論理学も同様であるが,弁証法はそれを超える高度なものであることを述べる部分が引用されている。この付近では,全体的連関の科学としての弁証法の実質に触れる論述がある。

その他は,エンゲルスの偉大さや先見性の賛美に終始している。そのようなことより,弁証法とは何か,そのヘーゲル的観念的解釈がどのような害をもたらしたのか,それを論じることがはるかに重要であると思われるのであるが。

結局,著者は,徹底した唯物論の立場から自然の時間的空間的無限性を論じるエンゲルスを繰り返し紹介し,それを賛美することにほとんどの言葉を費やしているのである。

ただし,この徹底した唯物論の立場に注目することは大きな意味があると思われる。特に,他を批判する際にエンゲルスのいう「弁証法」とは,徹底した唯物論とほとんど同義である。それゆえ,アリストテレスの弁証法が論じられているのではなかろうか。

なお,著者は,例によって,レーニンの哲学を高く評価する。しかし,対立物の統一と闘争など,レーニンによる弁証法の単純化・観念化の有無程度とその欠陥が真剣に検討されてしかるべきである。ここに今後の大きな研究課題がある。

著者の偏見は,自然の弁証法の原稿の歴史にも向けられる。ベルンシュタインの手紙によれば,その全体が当時出版されなかったのは,社会民主党指導部の決定であるのに,ことさらに,修正主義者と称されているベルンシュタインに責任を負わせるような書き方がなされている。皮肉にも,後期エンゲルスのこの著作は,むしろ「修正主義」に親和的であり,社会発展の冷静な科学的分析の必要性を示唆するものであるというのに,著者は,そのエンゲルスの教条としての価値にひざまづいて,出版しなかった決定を非難するのである。

しかし,冷静に見るならば,エンゲルスによる自然科学における弁証法の例証は,その後の同科学の飛躍的発展によって古び,かつ,哲学的な論述は,反デューリング論やフォイエルバッハ論により明らかにされたことの繰り返しを多く含むものであった。

毛沢東を始めとする弁証法の観念的解釈に対抗するために自然の弁証法が必要であるなどとは,ベルンシュタインには想像もつかなかったことであろう。

ベルンシュタインが原稿をアインシュタインに見せたこと,その際のアインシュタインの評価が紹介されているが,まさにアインシュタインの評価が正しいと思われる。すなわち,自然科学に関する論述は古び,それだけでは出版の価値がさほどないが,エンゲルスの考え方を示すものとしては,価値があろうということである。

本論目次

ヘーゲル弁証法とは何か

ヘーゲル哲学は、カントに始まるドイツ観念論哲学の到達点である。その歴史的生成の過程をたどる。

以下、別ノート、ドイツ観念論をめぐって、において詳細を論じる。

唯物論と決定論 <掲載予定>

唯物論と弁証法 <掲載予定>

人の認識活動の社会的性質 <掲載予定>

「哲学」とは何か。それは現在も学問として成立し得るのか <掲載予定>

弁証法の神秘化とそれによる「飛躍」への信仰 <掲載予定>

ポスト・モダニストとしてのマルクス及びその追随者 <掲載予定>

執筆メモ 弁証法に関する諸書籍の短評

弁証法に関する諸書籍の短評;

以下に、弁証法の関係する書籍のうち、ざっと最初と最後を読んで読むのをやめた書籍の短評を書く。

ミヒャエル・ヴォルフ、矛盾の概念; ヘーゲルが古典的論理学を否定していなかったこと、したがって、矛盾は実在的なものとは考えられていなかったことを主張するもののようである。カントとヘーゲルの文献を綿密に検討していることが窺われる。

メルロ・ポンティ、弁証法の冒険: マルクス主義的な弁証法について論じるもの。レーニン・スターリンらを批判してマルクスを救う、その類の書か。

シュロモ・アヴィネリ, Shulomo Avineri、終末論と弁証法 マルクスの社会・政治思想: マルクスの主として政治に関する論考を検討し、マルクスは、一方において終末論的ユートピア思想を持ちつつ、他方で、ジャコバン的・レーニン的な「革命」に批判的であったこと、一方で革命が間近いことを確信しつつ、他方で、資本主義がその力を失っていないことを現実的に把握していたことを主張し、レーニンらによる革命は、そのようなマルクスの思想を通俗化したこと、また、レーニンのみならずカウツキーらも同様であったことを論じている(なお、重要な指摘として、いわゆる初期マルクスと後期マルクスは、思想的に断絶しておらず、一貫していると説く)。エピローグでは、マルクスが1860年代以来、実際の政治運動からは距離を置いていたこと(マルクスはインターナショナルに関与していたはずなので、著者が何をもってそのように評価するのかは、不明である)、また、パリ・コンミューンに関する部分では、マルクスはその失敗を必然的なものと考えていたが、他方で、未来社会の姿をその中に見たことをを論じている。マルクスのための弁明の書ともいえよう。職業的な革命的文筆家としての存在に規定されたマルクスの認識及び表現の在り方は、全く問題にされていない。

フレドリック・ジェイムソン; アドルノ 後期マルクス主義と弁証法; マルクス主義の立場からアドルノの思想についてあれこれ論じるもの。最初から何を言っているか分からない文章が続き、読み続ける気持ちを失う。

メルロ=ポンティ; 哲学者事典; ヴィーコ、ヘーゲルらに関する部分を飛ばし読みするが、例のフランス哲学であり、読んでも無意味であると判断した。

ハイデッガーら; 弁証法の根本問題: これも思弁的な議論を連ねたもので要領を得ない。読む価値はなかろう。

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