金谷武洋 主語を抹殺した男 評伝 三上章
November 12, 2023 ;
金谷武洋; 主語を抹殺した男 評伝三上章;
象は鼻が長い、で知られる文法学者三上章(1903-1971)の評伝である。著者は、1951年生まれで、早くにカナダに渡って言語学を修め、そのままカナダに滞在して日本語を教授・研究している。日本語教育の実践の場において、従来学校で教えられてきた文法の限界に直面し、三上章学説によって目を開かれた。その思いが熱く伝わってくる。
西欧近代語、特に英語の主語・述語関係をそのまま日本文法に持ち込んだ(と著者が主張する)橋本進吉らの文法、特に主語が欠ける文を主語が「省略」されたものと考える立場を繰り返し批判している。「が」は、主格補語を明示するものであり、他の格助詞と同列に並ぶものなのである。橋本進吉の古代における音韻の研究のすばらしさを知る者にとっては、やや批判がすぎるような気がしないでもない。しかし、橋本らにつながる「国語」学界の人々が三上章の学説の価値に気づきながら、これをことさらに無視したことは事実なのであろう。
大野晋の「は」と「が」をめぐる書が「は」の主題提示機能をどうして正面から論じないのか、かねて不思議に思っていたが、その謎が解けたような気がする(ただし、大野の評伝や、大野自身の諸論文を詳細に検討しなければ、結論は下せない)。
それでも、佐久間鼎、金田一春彦らは三上を評価し、また、山田孝雄は三上の先駆者であった。
さらに、チョムスキーの生成文法批判、大野晋の言語系統研究批判は、そのまま簡単には納得できない。生成文法論は、英語に限られるわけではなかろう。それは言語能力一般の解明を目指すものである。また、言語系統論が重要でないとは到底言えない。大野のタミール語起源説は、学界からはほとんど無視された。しかし、その検証が十分になされたと言えるのだろうか。
著者が、ラテン語・古典ギリシア語においては主語を欠く場合が多いこと(ロシア語もである)、古英語においても同様であることを指摘しているのは興味深い。三上は、ゴーゴリの狂人日記の英語訳に「I am that king!」とあるのを読んで、主格補語の理論を考えついたことが記されているが(年譜1930年の項)、これもあるいはロシア語原文との対比によるのではなかろうか。原文を検討する必要がある。
また、著者が、三上学説に示唆を得て、西洋古典語における中動相を研究して修士号を得たこと、中動相は「無主語文」であり、「ある事態が人為のコントロールの及ばない勢いを持って出来することだ」との結論を得たことが記されている(61。『英語にも主語はなかった』に要約があるとのこと)。εἰμίの未来形がἔσομαιであることの理由を考えた際に同様の発想が浮かんだことがある。おそらく同じ方向の思考をまとめたものであろう。読んでみたい。
三上をめぐる伝記的事実は、妹のシゲ(茂子)や友人のインタビュー、三上の日記、論文及び著書等を資料として、手堅く、また、丁寧にまとめられている。筆致は著者の三上学説との出遭いの経緯と三上への尊敬の念を交えた、力溢れるものである。三上が数学の学校教師をしながら、文法研究に一生打ち込んだ姿に感動を覚える。
三上は1963年ころから精神に変調を来し、1970年にはハーヴァード大学における研究に招聘されるが、わずか3週間で帰国した。晩年は、喫煙に加え、ヴェロナール(あるいはその他の睡眠薬もか?)を多用したという。ハーヴァードに赴いたときには、睡眠薬を持参するのを忘れた。
著者は、三上が提唱した文法に対して学界からの反論がなく、長く無視されたことが三上の精神を苛んだと論じているが、果たしてそれだけだったのだろうか。数々の論文と著書を出版し、博士号を取得し、ハーヴァードにも招聘された三上の人生が「失敗」であったとは、一般には考えにくい。むしろ度重なる病気による体力の衰えと老い、創造性の減退、新たな知的発見による喜びを感じる機会が減ったこと、妹の将来に対する不安などによって、鬱状態になったと考えるのが妥当ではないだろうか。もっとも、世の賞賛があれば、その慰めになったことは確かなのであろう、いかに世の毀誉褒貶から超然としていたとはいっても、やはり名声を望んだのである。そして、それは人として当然のことである。そうでないとすれば、三上は何を望んでいたのだろうか。
今後三上の文法を更に深く理解するために、象は鼻が長い、その他の論考を読む必要がある。本田勝一の『日本語の作文技術』によって、三上学説の概要は早くから知っていたが、三上自身の著書はいまだ読んでいない。
なお、評伝からは離れるが、111の引用文から、太宰治の小品「思ひ出」に銀の鎖に鉛筆を結びつけて帯に吊り下げ、芝居小屋に行ったとの記述があることを発見した。賢治がシャープペンシルをぶら下げて歩いたことと共通のものがあり、興味深い。
金谷武洋 英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ
November 21, 2023 ; 金谷武洋;
英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ;
拾い読みをしながらの断想であるので、あるいは誤解があるかも知れないが、参考のため、以下に感想を記す。
西洋古典語の中動相が自己の意思と関わりなく自然に生起する事態を表明する非人称表現であることを主張する(著者の用語そのままではない。著者は「自然の勢」の言葉を用いる)。「自然」には、他者の行為、あるいは自己の、意思に関わらない動態(悲嘆等)をも含むのであろう。しかし、それですべてを説明できるのかは更に検討を要すると思われる。著者の概説を出発点として、中動相の発生史とその後の発展史の詳細を研究する必要がある。
西洋語の発展史を論じて、無変化の孤立語から屈折語へ、そして現代英語に代表される主語を中核とした語順構成語へ、という法則的変遷を明らかにしている点は、見事である。しかし、それを、人の行為を中心とした「神の視点」か(「する言語」。おそらく神である人の創造行為に中心を置く、との意味なのであろう)、出来事を中心とした「虫の視点」か(「ある言語」)などの「文化的」違いに直ちに結びつけることには賛成し難い。
言語は、あらゆる言語を通じて、人の認識、意欲等を伝達する手段であろう。そうだとすれば、表明の対象となる人の認識、意欲等の論理的構成が何らかの手段によって誤解の余地なく示されなければならないのである。したがって「主語」の概念が文法理論において不要であるかのような論じ方には疑問がある。主語の概念は必要である。
ラテン語、古典ギリシア語の動詞の人称変化は、さらに名詞・形容詞の格変化は、動詞が表現する作用・状態帰属(繋辞動詞)の主体、手段・原因、対象等を明らかにして、言語による表明行為によって伝達しようとする表明者の表明内容(認識、意欲、願望、要求等の内容)の論理を明らかにする。主体は、主格(著者によれば「主格補語」)、活用語尾、文脈によって示される。確かに主格補語は、その一つの手段であって、唯一のものではない。この点を指摘し、また、日本語においては、「は」による提題が重要な役割を担っていること、それが多くの場合、主格補語の機能をも兼ねていることを指摘することは正しい。
それでも「主語」概念は必要である。英語のように活用語尾及び格変化をほとんど失った言語において、あるいは中国語のような孤立語においては、主語の明示と語順構成によって初めて論理が理解可能となる。しかし、それは文化の違いによるものではなく、言語の全体的な構成の在り方によるものである。しかも、このような主語の明示と語順構成による言語への発展は、著者も述べるように記憶の経済に基づく文法規則の簡略化によるところが大きく(170)、必ずしも文化の違いによるものではない(記憶の経済に何らかの文化的価値が抵抗するということはあり得る。しかし、それが長期的な傾向を阻止できるのかは疑問である)。
分詞や関係代名詞節、日本語の連体形による修飾、述語的同格等の、複雑な論理を表明する手段の文法的理解のためには、「主語」の概念を欠くことはできない。西洋古典語の読解の鍵は、文中における定動詞の発見と、文脈や活用語尾によるその「主語」の特定である。文法理論の解明は、言葉は論理を表現する手段であること、その事実から出発すべきである。
三上章 象は鼻が長い 1960年
November 25, 2023 ; 三上章; 象は鼻が長い、初版1960年;
遂に三上章自身の著作にたどりついた。
本書は、係助詞「は」(「も」等もこれに準じる)の主題を提示する機能、「…について言えば」の意味において文の主題を示す機能が日本語の文章の根幹をなし、それが「ガノニヲ」などの他の格助詞の機能を「兼務」すること、このような兼務の機能は、コンマを越え、また、提題の機能はピリオドを越えること、これらを豊富な実例を紹介しながら詳細に論じている。
その内容は、金谷武洋の著書、本田勝一『日本語の作文技術』が述べるとおりである。しかし、著者は、金谷の著書が述べるような、日本文化と西洋文化の違いなどという安易な文化論には与していない。むしろ、著者の本意は、西洋、日本ともに、人の認識に共通する論理を、異なる構造を持ったそれぞれの言語を用いて表現しているということであろう。
著者の主張する「主語廃止論」の主たる目的は、日本語の文章では主語が明確でない、したがって、日本語は論理的でない、などという決まりきった「知識人」の嘆きの浅薄さに対する攻撃である。そして、それはそのような攻撃手段であるがゆえに修辞的な誇張に陥ったものというべきであろう。
動詞あるいは繋辞(である、名詞と形容詞のゼロ結合等)に結び付いた作用主体又は受作用(受動)・属性帰属主体を表す意味で、著者は「主格」という用語を当初から用いている。主格は、例えば「が」によって「主格補語」として示される。主格は、文脈や提題の「は」によって示されるほか、このように主格補語として明示される。しかし、文脈や提題助詞、あるいは主格補語によって示される作用主体、受作用(受動)・属性帰属主体は何か、これを示す具体的な言葉、「主格補語」の内容をなす言葉が「主語」であろう。著者も「文」の「主語」と動詞等の「主語」の2義のうち前者のみを否定しているものと思われる(p.103, 104)。
そして、動詞その他は、その主語について述べる「述語」である。このような主述の概念を「廃止」して文法を論じることはできない。
古典ギリシア語・ラテン語は、動詞活用と述語的同格等に用いられる名詞・形容詞等の変化(性・数・格)によって、主語の範囲をある程度特定する。しかし、それも完全ではない。主語が明示されないことも稀ではない。主語は、しばしば大きく文脈に依存して判断され、しかも、「コンマ越え」「ピリオド越え」をするのがむしろ通例である。
p.230には、著者が「主語」概念を「復活」させたことが述べられている。その「復活」は必然的であった。
著者の日本語文法への貢献は計り知れない。しかし、それを安易な比較文化論やアカデミアへの攻撃に用いることは(もちろんアカデミアが、特に人文社会科学のそれが、自由な議論を阻む排他的な閉鎖性を持っていることは否定できない)慎むべきであろう。