アルトゥール・ローゼンベルク ヴァイマル共和国成立史
関連ノート、ワイマール共和国
#ワイマール共和国成立史
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..Date: Sun Sep 09 21:40:59 2007;
Arthur Rosenberg,アルトゥール・ローゼンベルク;ヴァイマル共和国成立史;
1928年著の翻訳。足利末男訳。
階級,政党,政治集団,軍,これらの社会集団の利害とイデオロギー・行動に着目した政治史論であり,フランスにおける階級闘争をも思い起こさせる力強く明確な筆致である。ビスマルクが一種のボナパルチズム的均衡を目指し,彼のような賢明な宰相とこれに従う皇帝によってのみ可能となる憲法体制を築き上げたこと(ユンカー,軍事・行政官僚,ブルジョアジーの勢力均衡),大工業家が労働者革命を恐れて,この体制に従ったこと,したがって,彼らが権力を握ることが可能な瞬間がありながら,これに逡巡したこと,同様のことは社会民主党にも妥当すること,日本における統帥権の独立あるいは中国における党の軍隊を想起させる軍の独立性(皇帝に直属する)とその帰結(ルーデンドルフ将軍の独裁),18年11月革命がブルジョア的変革を求めた兵士・労働者の革命であったこと(スパルタクス団の存在はほとんど知られてすらいなかった。),結局,ブルジョア革命を経ないビスマルクによる上からの改革によって,ブルジョアも労働者も政治的訓練の機会を経ていなかったこと,これらの帰結として,ルーデンドルフ独裁が敗戦によって維持し得なくなると同時に兵士の待遇への不満と厭戦気分を動機とする自然発生的11月革命が起こったこと,以上のような経過を生き生きと描き出す。
城内平和(Burg Frieden)については,「祖国防衛」はエンゲルスも主張していたことであって正当な立場である一方,城内平和は誤っていたという。
エンゲルスは,ツァーリ専制が敵となった場合,労働者がこれに参加してその打倒を目指しつつ,国内政治における勝利を追求すると述べたという。そして,このエンゲルスの立場に従い,城内平和は誤りであったという。(本書は,エンゲルスを現実的な政治家として高く評価する。)エンゲルスの謂いは「軍国主義の弁証法」にほかならない。
注目すべき箇所:47-48,2章注9,エンゲルスへの高い評価とその諸論考の引用(手紙を引用するが,どこにあるのだろう。内容的には「ドイツにおける社会主義」(91年)に同じことが述べられているようだ。)フランスにおける内乱へのエンゲルスの有名な序文(1891年)。73-76,城内平和への評価。118,戦争を拒否する急進左翼への批判。<軍国主義の弁証法の先見性>
ローゼンベルクは,同化ユダヤ人の家庭の出身。ローマ史の専門家であったが,1918年に独立社会民主党に参加し,その分裂とともに共産党に所属した。国会議員にもなり,また,コミンテルンにも関与したようであるが,1927年に共産党を離れた。
本書執筆時点ではいずれの党にも参加していないこと,党派的な歴史の歪曲に反対することが本書序文に明記されている。ナチスの台頭とともに亡命し,イギリス・アメリカで教授職を務めた。他に,ヴァイマル共和国史,ボルシェビズムの歴史がある。
ローゼンベルクの小伝について
ローゼンベルクの英語による小伝として、次のものがあり、ネット上で入手できる。
Mario Kessler, Arthur Rosenberg (1889-1943): History and Politics between Berlin and New York
以下は、これを読んでの感想である。
ローゼンベルクの簡潔な伝記及びその著述の要約である。ローゼンベルクは、改宗ユダヤ人の家庭に生まれ、古典学を修めて、ローマ史の研究に業績を残した。第1次世界大戦に志願兵として参加し、その幻滅からと思われるが、独立社会民主党に入り、その分裂に伴って共産党に加わる。同党の国会議員として活動したが、後に離党した。ナチスの政権掌握後、亡命し、最後はニューヨークにたどり着いて、教職を得た。本論考は、これらの伝記的記述のみならず、著作の比較的詳細な紹介も行っており、特に晩年の著述に関する記述が参考になる。結局、ローゼンベルクは、レーニン及びスターリンを批判してマルクス及びエンゲルスを救う態度を超えることができなかった。マルクスは、改良課題を重視し、農業問題を研究し、かつ、戦争に対しても教条的な態度をとらなかった、これらの点を終生強調した。また、スターリン独裁の残虐な弾圧の実態を正面から批判することはなかったようである。更に詳細な伝記があれば、ぜひ読みたい。なお、ローゼンベルクは1927年にドイツ共産党を離れるが、それまでは、ルート・フィッシャーらとともに共産党の最左派に属した。その思想の転回の経緯は必ずしも明らかではない。議会において第1次世界大戦敗北の原因を究明する委員会に所属し、歴史過程を冷静・客観的に見る機会を得たことが、おそらくは一つの原因となったのであろう。ドイツ労働者階級はボリシェヴィキ革命を望んでいなかった、この単純な事実に改めて気づいたのだと思われる。以降、彼は、革命の幻想への批判を繰り返した。