横山裕章 陳独秀の時代 「個性の解放」をめざして
2025.03.21; 横山裕章;
陳独秀の時代 「個性の開放」をめざして; 2009年、慶應義塾大学出版会;
著者のそれまでの陳独秀伝を収め、更に関係論文及び陳独秀の自伝(科挙試験まで)の翻訳を収める。
陳独秀(1879-1942)
中国社会科学研究所近代史研究所の唐宝林が序言を寄せている。同人と林茂生が陳独秀再評価の先端を担ったようである。序言は、科学と民主を常に重んじ、反対党派を含めた言論の自由を擁護した陳独秀を、特にその晩年の思想を高く評価し、中国共産党に終始批判的である。このような言論が2009年当時にはあり得た。
陳独秀の自伝は、科挙試験までであり、しかも極めて簡略なものであるが、それにしても1879年生まれの陳独秀にして、このような科挙試験合格による立身出世を目指したという事実に驚かざるを得ない。科挙試験に対する反発から日本留学へ、そして日本における外国語の習得と読書へとその後の生涯は移っていく。その間の思想的変遷の詳細は、著者の陳独秀伝においてもはっきりしない。そもそも日本における留学先も詳細が不明のようである。この時代の中国人留学生の動向の詳細を研究すれば、重要な貢献となるであろう。
佐藤公彦 陳独秀 その思想と生涯 胡適序言・陳独秀遺著『陳独秀の最後の見解(論文と書信)』を読む
2025.03.26; 佐藤公彦; 陳独秀 その思想と生涯 胡適序言・陳独秀遺著『陳独秀の最後の見解(論文と書信)』を読む;
陳独秀的最後見解(論文和書信)、なる、1949年香港・広州で出版された書の翻訳(ただし、翻訳順序、掲載書信等が異なる別書に依拠する)を含む。
陳独秀の著作・書信の翻訳を中心に読む。一言で言えば、おそるべき透徹した思考を持った政治思想家である。科挙試験までを描いた自伝の世界からどのようにしてこのような深い政治思想を抱くに至ったのか、その間の日本留学経験はどのようなものであったのか、深い興味を覚える。
陳独秀は、民族主義・民主主義の思想家として雑誌『新青年』を通じて青年に大きな影響を与え、コミンテルンの働きかけに応じて中国共産党を創立する。コミンテルンの指導に反発しつつも、これに従い、第1次国共合作を指導するが、その後の国民党による共産党弾圧の責任を負わされて、党を離れ、トロツキー主義に転じた。
その後長く投獄され、釈放後は、いずれの党派にも属さず、文筆に専念した。
トロツキー主義に転じたのは、ソビエトの利益をすべてのものの上に置くコミンテルンすなわちスターリンの指導によって運動が大きく歪められ、多くの犠牲を払うに至ったこと、そのスターリンに対してトロツキーが対抗していたことによるのであろう。しかし、陳独秀は、中国社会の当面する課題が、反対党の自由を含む、徹底した民主主義であり、一挙に社会主義に進む状況にないことを見抜き、トロツキーをも超えた、自由と民主主義の立場に立つに至った。
第2次世界大戦に対する態度も、このような現実を冷静に見据えながら、中国の解放と民主主義をいかに実現するか、そのためには相闘う各国に対してどのような態度をとるべきか、との思考に貫かれたものである。陳独秀自身が、楽観論でもなく悲観論でもなく、ただ現実を踏まえるべきであることを明確に述べている。当然のことながら、戦争を内乱へというスローガンが非現実的で、しかも有害な幻想であることが繰り返し指摘されている。
その上で、陳独秀は、当面民族解放の課題を差し置いてでも、反ファシズムすなわち反ドイツ・イタリア・日本の戦いに集中すべきであり、これに勝利した後の、反対党の自由を含む、「ブルジョア」民主主義の下で、民族解放と民主主義の両課題のために闘うべきであることを主張する。
陳独秀は、自由な民主主義が、たとえ「ブルジョア革命」の名の下であれ、ブルジョアを含む多くの人民の努力によって生まれたことを強調し、これを嘲り、踏みにじる「プロレタリア独裁」論が、むしろ遅れた社会から生まれた思想であること、このようなプロレタリア独裁は、必然的に権力を握るものの腐敗と圧政、人民のこれへの従属に終わることを指摘している。
また、エンゲルスの遺言を直接引用しているわけではないが、エンゲルスの名前を挙げて近代の戦争における武器の重要性を度々指摘しており、人民の武装蜂起の限界を深く認識していた (「私の根本意見」第14項、p.429)。
なお、陳独秀の晩年の思想は、陳独秀自身の、1940年11月28日付「私の根本意見」(424)及び本書に含まれる胡適の序言(49)に簡潔にまとめられている。また、中国革命に関する別ノートにも陳独秀の見解を引用した。同引用部分は、本書431以下の諸書信の全体とほぼ一致する。