古典と古典語 Classics and Classical Languages

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古典と古典語

1 現代の意味

 しるべせよ跡なき波に漕ぐ舟のゆくへも知らぬ八重の潮風
                      式子内親王(1149年-1201年)


*「しるべせよ」とは「道しるべを」せよの意、「八重の塩風」(「潮風」とも書く―筆者)とは「八重の潮路」を吹く風であ り、「八重の潮路」とは、「はるかな潮路」をいう。「行へもしらぬ」は、上から続くものであるが、結句をも修飾する(奥野陽子『式子内親王集全釈』495頁以下による)。


 「ゆくへも知らぬ」のは、航跡が波に消されていく果てしのない海を渡る舟の上の人、あるいは舟そのものに喩えられた人である。そして、八重の潮風もまた「ゆくへを知ら」ない(奥野陽子・上掲による)。激しく、意のままにならない恋情が自らをどこに導くのか、それを「ゆくへ」を知らない風に問いかけたところで答えが返ってくるはずもない。「しるべせよ」との命令の鋭い叫びは、風の音とともに彼方に飛び去っていくばかりである。
 萩原朔太郎(1886年-1942年)は、『恋愛名歌集』において「この歌には恋慕の象徴的な情趣があって、或る悩ましい音楽の浪の中に、遠く心をひきさらって行くような感じがする。編者の知っている或る詩人は、この歌を朗吟すると不思議に心が誘惑され、月光の海に人と情死がしたくなると言った。そういう感じの普遍性は疑問としても、とにかくこの歌には音楽的の魅力があり、恋の悩ましい心を遠く誘って行く嘆息がある。」と評している(新潮文庫版129頁)。「或る詩人」とはあるいは編者自身ではないか、と考える余地もないではない。いささか穏当を欠く語も含まれてはいるが、歌の興趣を見事に表した評である。
 なお、私は、以前にある雑誌で式子内親王の歌を紹介したところ、その後、ある方からこの名歌集の存在を知らされ、同書を引用すべきだったとの指摘を受けて、これを読み、改めて萩原朔太郎の詩的感性の鋭さに感銘を受けた。そして、この批評は、詩における音楽性を考える上でも重要なものに思われた。あるいは私の偏見や思い違いが混じっているかも知れないが、最近の、いわゆる現代詩や短歌に接して思うのは、言葉の響きへの無関心が過ぎてはいないかということである。調べの美しさがない「詩」よりも、例えば中島みゆきの歌の方がずっとすばらしく、そこにおける音楽と詞の総合こそが本当の詩である、と思われてならない。
 以上は、内親王の作品を恋の歌と考えた上での論述であるが、この歌を「現代」についてのものと想定したらどうであろうか。内親王が生きた時代は、数々の内乱を経て、王朝貴族の社会が武家の社会へと変貌していく、まさにそのただ中であった。そういった内親王にとっての「現代」に対する根底的な不安、しかもなお「しるべせよ」と叫びつつ不条理を生きなければならない人の覚悟、あるいは内親王そのものの決意が表現されているとは言えないだろうか。
 そして、我々の生きる「現代」も不安に満ちている。今まで例を見ない規模の台風やハリケーンによる大洪水、森林火災、氷河の崩壊、海面上昇等、気候変動はとどまることなく人の社会を脅かしつつある。さらに、2019年から今日に至るまで、恐るべきパンデミックが日々人の命を奪っている。一方、先進国を中心に、社会の分裂が深まり、人々の間の連帯感は日に日に薄れ、それどころか人の人に対する敵意が当然のこととして肯定される傾向が強まっているように思われる。
 我々の現代は、思想的には「ポスト・モダン」の時代であるとよく言われる。それは文字どおりには「近代後」を意味する。曖昧で多義的な言葉ではあるが、その大きな特徴は、科学に対する不信、あるいは科学に対する反感であると言えよう。一言で言えば、「反科学」であり、科学が知性の産物であるとすれば、「反知性」である。科学は自然に対する畏敬の念を失わせた、科学には限界がある、科学によって自然を支配するという妄想が今日の事態を招いている、自然に還れといった、一連の思想が知らず知らずのうちに人々の間に浸透しているように見える。しかし、過去に比べての今日の我々の生活の豊かさ、世界人口の激増等は、自然科学の発達によって初めて可能となったものである。自然科学の飛躍的発展の一方における、この「反科学」は、どうして生まれているのだろうか。
 ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883年-1955年。以下、外国人名等は一般的で発音しやすい表記に従う)は、その『大衆の反逆』において、19世紀末から20世紀初めにかけてのヨーロッパの繁栄によって(19世紀の間にヨーロッパの人口は1億8千万を超えない状態から4億6千万に増加したという)、「甘やかされた」「大衆」が生まれ、それが時代の精神となって社会を支配していると説いた。すなわち、自由主義と生産技術の飛躍的発展は、大衆に政治参加の機会と物質的な充足、そしてその永遠性への期待を与えた。著者は、今日の風景をこうした大衆の蝟集・充満であるという。大衆は、過去におけるように、日々の欠乏と格闘し、生存と平和を求めて、ひたすら貴族の指導に服従するしかない状態から脱し、何らの義務も犠牲も負うことなく、さらに与えられ続けることを望み、そして、その状態のままに自らが容易に国家を運営できるという幻想を抱くに至った。大衆とは、生まれながらに不自由と欠乏を知らない「慢心しきったお坊ちゃん」であり、それが、その不完全性を自覚せずに既存の権力に挑む、これが「大衆の反逆」である。大衆は、文明形成の歴史的経過、そこにおける法と習慣の重要性、自由主義の歴史的意義と、そこからもはや後退し得ないこと、科学的発見と技術発展の歴史、それらを無視して、この状態からあの状態へと容易に飛び移ることができると錯覚する。各種の専門家ですら例外ではなく、分業の進展のために、専門家は、自然科学をも含めて、細分化された分野において活動し、全体的視野と総合の能力を欠いている。そして、彼らは、一分野における能力の保有に基づいて、全分野についても能力があると錯覚する傾向を持ち、それゆえ「大衆」の一部となる。本書は1929年に発表された論考を取りまとめて1930年に発刊されているが、著者は、その時点で既に、このような特徴を備えた「大衆人」が社会を支配していると論じている。著者によれば、それゆえに当時のヨーロッパ諸国はその日暮らしの政治を免れなかったのであり、各種の全体主義はその帰結であった。
 以上やや長い要約を記したが、オルテガの指摘は、我々の現代にもそのまま、あるいは一層強く妥当するものであろう。ポスト・モダンの思想は、実は19世紀後半から既に始まっていたとすら言うことができる。そして、現代において、科学技術の飛躍的発達、生産の技術的高度化と大規模化、社会組織の大規模化・複雑化は、物質的財の生産から遠く離れ、あるいは、これにごくわずかに部分的にしか関与せず、ほとんどその消費にのみ生きる人々をますます大量に生み出すとともに、社会の統治からも人々を引き離し、これへの参加の意義を極端なまでに希薄化させつつある。
 私には、ポスト・モダンの「反科学」「反知性」の思想がもたらすものは、結局は、科学的思考の反対物としての非合理主義であり、オルテガがいう「大衆人」の、この状態からあの状態へと容易に飛び移ることが可能であるとの空しい信念そのものであると思える。そうであるとすれば、その思想を克服するものは、「科学」の再発見であり、それを生み出した「近代」の再発見、さらには近代がその基礎とした古典古代の再発見ではないであろうか。新たな「ルネサンス」が必要なのである。そして、その「ルネサンス」は、自然科学の上に、さらに社会科学・人文科学における「科学」への新たな目覚めをもたらすものでなければならない。

2 古典の意味 (西洋古典の翻訳者について、畠中尚志氏について)

 本稿で「古典」と記すものは、ギリシア・ローマ、すなわちヨーロッパにおける古典古代の文献を含むが、それに限らず、世代を継いで読み続けられてきた書を広く含む。そういう古典を時間をかけて読むことの必要性を痛感したのは、ようやく50代に入ってからのことだった。言い訳を述べるとすれば、それまではそんな余裕がなかったと言えばよいだろうか。高等学校時代、国語といえば小林秀雄(1902年-1983年)を推奨されたことを覚えている。その難解さと、社会や政治の現実の生々しさを超越した独特の文学性は、大学の入学試験問題にも最適であった。しかし、その時間を西洋古典や我が国の古典に充てていれば、何か違う人生があったのではないか、そんなことも考えてみる。職業に就いてからも、文字どおりに押し寄せてくる仕事の中で、何かそれを読めば一挙に分かるような書があるはずだという幻想にかられ、新書程度の量で歴史や思想を解説したものを追い求めていたような気がする。得られたのは、一知半解の不可解さのみであった。しかし、多少の余裕が生まれてからは、ようやく『ガリア戦記』、『ゲルマニア』等から始め、わずかばかりではあるが、ヘロドトス(前490年ころ-前420年ころ)の『歴史』、ツキディデス(前460年ころ-前395年ころ)の『戦史』、クセノポン(前427年ころ-前355年ころ)の『アナバシス』等を読むようになり、我が国のものでは、本居宣長(1730年-1801年)等を読む機会を得た。結局のところ、長い回り道をした上で、「古典を読め」の言葉の正しさをようやくに知ったというにすぎない。
 中でも、ヘロドトスとツキディデスは、衝撃的と言ってもよいものであった。これらの書において、ヘロドトスはペルシア戦争(前499年-前449年)を、ツキディデスはその後のペロポネソス戦争(前431年-前404年)をそれぞれ主題として、アテナイ、スパルタ等の各都市国家やペルシアの政治の動きと各戦争の帰趨を見事に明らかにしている。各都市における民衆の間の意見の対立や都市国家間の交渉は、当時の弁論家、すなわち民衆を指導し、あるいは煽動する政治家たちの論争を中心として描かれている。それらの演説の内容は、後世、著者の創作が相当程度混じっているのではないかとの批判を招くに至ったものではあるが、それぞれの弁論家が採る立場を、論理を追って、そして、民衆を説得するための煽動的言動をも記録して、明らかにするものであり、読者に当時の状況を彷彿とさせるものである。中でも、ペロポネソス戦争における、アテナイにとって致命的な敗戦となったシチリア遠征(前415年-前413年)をめぐる各演説は、白眉であり、それだけで一つの悲劇作品をなすものと言ってもよいであろう。すなわち、当時のアテナイにおいては、民主政の下での権力闘争とそのための弁論家の民衆への迎合に、市民兵士たちの植民地への欲望等が加わって、主戦論がアテナイ市民の多くをとらえ、ペロポネソス軍(スパルタ等)との戦争(当時一時的に休戦状態にあった)に加えて、シチリア獲得のための第2戦線を開くに至らせた。しかし、アテナイ遠征軍は壊滅的敗北を蒙り、その後、その責任は一部の者にのみ負わせられたのである。
 このような膨大な著述はどのようにしてなされたのだろうか。F.G.ケニオン著・高津春繁訳『古代の書物』(岩波新書)に、古代ギリシアにおけるパピルス書写本の流通は、我々が想像するよりもはるかに古くから行われていたとの指摘がある。しかし、それにしても利用できる文献は数少なく、かつ、断片的なものであったろう。おそらく、ヘロドトスは、各地を旅し、碑文(『アナバシス』にも戦勝碑を建てる話があり、そのような習慣があったのだと思われる)や伝承を見聞し、かつ、様々な歴史的出来事を直接・間接に見聞きした関係者から話を聞いて、それらを丹念に―おそらくはパピルスに―メモすることによって、資料を蓄え、それらを検討して取りまとめ、『歴史』として書き記したのだと思われる。書中の演説は、そのような各種資料から再構成されたものであろう。ヘロドトスは、彼にとっての古代に当たる時代について、荒唐無稽とも思える神話的な記述もしており、それを批判する向きもあるが、それらは各種の伝承をあくまで伝承として記しているにすぎない。利害の対立する双方の立場の伝承をそのまま並列的に記している部分も多い。さらに、ツキディデスは、歴史叙述の方法に関して一層自覚的であり、書の冒頭に、ペロポネソス戦争の開戦劈頭から、これが史上特筆すべき大事件に展開することを予測して記録を始めたと述べ、さらに、自らの記録は、伝説的な要素が排除されているためにおもしろくないかも知れないが、後世、人間性の導くところ、同じような歴史が繰り返されるのではないかと考える人たちが、その価値を認めてくれることを望んでいる旨を書き記している(岩波文庫版上巻75頁)。
 歴史は、自らとその周辺の生存はもちろんのこと、富、名誉、権力等を求めて生き、死んでゆく具体的な人間とその集団の、具体的な思想と行動によって形成されていくのであり、あれこれの大義や神意がそれ自体で歴史を決定するのではない。ヘロドトスとツキディデスの歴史叙述の方法は、一部、後世に批判がないわけではないが、全体として驚くまでに客観的・科学的であり、それまでの、ミレトスを始めとする小アジア沿岸都市をも含めた全ギリシア世界における自然哲学の豊かな蓄積を感じさせる。田中美知太郎(1902年-1985年)『古典への案内―ギリシア天才の創造を通して』(岩波新書)はこのことを強調し、ヘロドトスの著作が科学的精神による人間への深い洞察の所産であること、技術的な進歩発達は必ずしも人間理解の深さを約束しないことを指摘している。
 そして、このような人間をありのままに客観的に見る態度は、ギリシア古典盛期の美術とも無縁ではないであろう。その作品に表現されているアポロン、アテナ等の神々や少年・少女を含む人々の姿は、誇張とは無縁な清明な気品に満ちている。澄みわたった空と地中海を背景として、その人そのものが生きている、そう感じさせるものがある。
 こうして論を進めると、我が国において西洋古典の翻訳に携わった方々に触れないわけにはいかない。上記の田中美知太郎、呉茂一(1897年-1977年)、高津春繁(1908年-1973年)、松平千秋(1915年-2006年)の各氏らを始めとする碩学の努力には、いくら感謝しても足りない。古典古代からは時代が下がるが、近代の曙、17世紀、科学革命の時代に、当時の宗教的権威を批判し、人間を自然の一部としてとらえるべきことや、政治的・宗教的な自由と民主政の意義を説いた哲学者、スピノザ(1632年-1677年)の著作については、畠中尚志(1899年 -1980年)氏が病苦の中でほとんど一生をかけてラテン語やオランダ語からの翻訳を行っている(「スピノザを訳した日々のこと」図書、岩波書店、1977年2月号参照)。以上に挙げた方々の生年を見ても、現代の我々が、19世紀から20世紀初めに生まれた人たちにいかに多くを負っているかを改めて認識しないわけにはいかない。これは、法律学においても同じであり、一々生年を記すことは省略するが、牧野英一、末弘厳太郎、我妻榮、川島武宜氏らが思い浮かぶ。おそらく、いわゆる大正デモクラシーの時代を含めて、20世紀初頭から戦争に至るまでの我が国は、政治的にはともかく、文化的には一種のルネサンス的な状況にあったのであろう(1896年生まれの宮澤賢治の作品も、これを前提として初めてよく理解できるように思う)。このような政治と文化のずれは、古典古代、イタリア・ルネサンス等の例を見れば明らかなとおり、世界史上しばしば見られる現象なのである。付言すれば、我々にとっての現代もまた、ポスト・モダンの終焉が思想として現れる時代なのかも知れない。このことからしても、我が国の戦争前を暗黒に塗りつぶすことの愚かさが知られる。誠に「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(ヘーゲル『法の哲学』序文、世界の名著35、174頁)のである。そして、上記の人々の書いたものを読むと、今日のようには容易に各種資料が入手できない状況の下で、努力を重ねて古典を読み解き、その上に自らの思考を展開する、一種清新な気概が感じられる。特に、上記畠中氏が戦争中に翻訳して出版したスピノザの著作とその解説の背後に存在したであろう同氏の当時の覚悟を想像すると、深い尊敬の念を覚えざるを得ない。

3 古典語の意味

 私は、定年退職後にロシア語や中国語の勉強を薦められ、まずは、ロシア語のキリル文字とその複雑な格変化及び動詞活用に苦しむことになった。勤務先創始者が作り上げた語学学習方法は、外国語原文を各自分担して訳出し、原文を音読した上でその訳文を検討するというものであり、私の場合、ロシア語の一文を翻訳するのに1時間以上かかるなどということも少なくなかった。しかし、文法書と辞書を頼りに何とか読み解く努力を重ねるうちに、専門分野であることもあり、多少とも理解が進むようになって、上記方法の有効性を知った。先ほど述べた諸碩学もこのようにして語学に取り組んだのではないか、そんな感想も抱く。そして、新たな分野として出現したのがラテン語である。
 ラテン語やギリシア語によって西洋古典を読む、それに越したことはないが、どれだけの意味があるのだろうか。まず挙げるべきなのは、これら二つの言語が英語を始めとする近代語に与えた大きな影響を知るということであろう。このことは、近代語の習得にとっても大いに有用である。例えば、英語の語彙の多くは、フランス語を介して、あるいは直接にラテン語から導入されたものである。我々が発音にとまどうような比較的音節数が多い単語には、ラテン語起源のものが多い。例えば、ラテン語動詞、agere(to drive, conduct, lead, etc.)の各種変化形から、agent、action、active、activity、agitate、agitation、agitator等の英単語が生まれている。その比率はどのくらいに及ぶのか、ある研究によれば、フランス語又はラテン語に由来する単語は商用書簡に頻出する1万語中の6割近くに上ったという(http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2011-08-20-1.html)。そして、語源研究の権威、アーネスト・ウィークリーの『ことばのロマンス』(岩波文庫)にいたっては「英語の語彙は文章語の面からみると、大部分ラテン語に基づいている。」と記して第1章を始めている。ヨーロッパ近代語にとってのラテン語は、日本語にとっての古典中国語であると言ってもよいであろう。英語の「漢文」としてのラテン語を学ぶ意義は大きい。
 そして、そのラテン語は、古典ギリシア語やサンスクリットとともにインド・ヨーロッパ語族に属するのみならず、語彙や修辞法において古典ギリシア語に多くを負っている。ヘレニズム世界の共通語は、コイネーと呼ばれる共通ギリシア語であった。今日の英語に相当するものと考えればよいであろう。ローマ人たちもギリシア語とそれによる古典を学び、一説には、カエサルの「ブルータスよ、お前もか」の言葉は、ギリシア語で「お前もか、息子よ」と叫ばれたという。ペルガモンやアレクサンドリアの図書館には、ギリシア語でパピルスに記された膨大な書が所蔵され、人類の知的活動を支えていた。しかし、戦乱の中でこれらの多くが散逸し、やがてイスラム世界の発展がヨーロッパを孤立と停滞に追い込むことになる。そこで生き残ったのがラテン語であり、それは知識人たちの共通語として用いられ、中世ラテン語として発展した。
 ギリシアの古典は、シリア語、次いでアラビア語に翻訳された後、イスラム世界の衰退とヨーロッパの発展に伴う「12世紀ルネサンス」を迎えて、ユダヤ人を含むスペインやイタリアの学者によって、アラビア語からラテン語に翻訳されるようになった。そして、ギリシア古典文献を伝えてきた東ローマ帝国が衰退し、1453年にはコンスタンティノープルが陥落したのに伴い、ギリシア語から直接ラテン語に翻訳することが盛んに行われるようになった(伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』講談社学術文庫)。さらに、15世紀半ばにおける印刷術の発明、これによる各種出版の爆発的増大は、情報の伝播と共有によって、科学技術の発展を加速し、航海術とそれに必要な地理学や天文学、さらに解剖学、医学、冶金術、数学等の飛躍的な発展を可能にした。この「16世紀文化革命」は、アリストテレスらの見解を絶対的なものとみなす非実証的な文献学の束縛を破り、経験的な観察の結果に基づく、磁力や重力といった遠隔作用の解明を含む数々の科学技術上の発見とその応用を生み、それと同時に、ラテン語に対して俗語と称された各国語による出版が盛んに行われるようになった(山本義隆『磁力と重力の発見』『一六世紀文化革命』みすず書房)。
 こうして見てくると、我々にとっての「現代」の課題は、社会科学・人文科学における「文化革命」ではないか、そんな感想を抱く。ここに多くは記せないが、相互の対話によって、すなわち議論によって、自然、社会及び人間の在り方を、何物にも縛られずに自由にありのままに解明していく、ギリシアの古典にはそんな魅力があるように思われる。それがどのような言葉によってなされたのか、それを知りたいと思う。

4 おわりに


 最近、アルベール・カミュ(1913年-1960年)の『ペスト』を読んだ。カミュといえば、不条理の世界でひたすら空しい努力を繰り返す『シーシュポスの神話』が思い浮かび、暗い宿命的な物語なのかと思っていたが、予期に反し、それは、突然襲いかかってきたペスト禍に対して、人々が連帯し、主人公の医師を中心として科学的な精神の下に、絶望することも、たじろぐこともなく、持てる力を尽くし、立ち向かう希望の物語だった。このような疫病禍との遭遇に限らず、人は、生まれ、死ぬ、その時と場所を選ぶことができないだけではなく、常に、ある未知の状況、すなわち「不条理」の中に投げ込まれる。そして、我々の意識は、諸原因によって決定され、ある行動を選ぶが、我々自身はその原因すべてを知っているわけではない。世界は空間的にも時間的にも無限であり、その無限の連関を我々は知り尽くすことができない(スピノザ、チャールズ・パース)。その意味において、未来は常に開かれたものとして存在し、私たちの科学的精神と希望がそれを切り拓いていく、そんなことをカミュから改めて教えられた気がする。パンデミックのさなか、この「希望」の文字を記してこの稿を終える。

(2021年4月)

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