1940年のフランスの敗北、1935年のチャーチルの警告
1940年5月10日、ドイツは、突如中立国ベルギーを侵略し、その南東部「アルデンヌの森」からマジノ線を迂回して、易々とフランス国境を破り、6月14日には首都パリを陥落させた。 フランスは、ドイツの圧倒的な軍事的優越の前にあっけないほど簡単に降伏し、国土の主要部分を占領され、わずかに、皮肉にも第1次世界大戦の英雄であったペタン元帥によるヴィシー親ドイツ徳儡政権の存続を許されたにすぎなかった。
アナール派の歴史学者であり、後にレジスタンス活動に参加してドイツ軍により殺害されたマルク・ブロックは、ベルギー戦線に参謀部将校として加わり、ドイツ軍の空爆の恐怖とフランス軍の混乱ぶり、自軍後方の小都市が次々と無防備都市宣言によってドイツ軍に占領される有様などを、敗北直後の1940年7月から9月にかけて執筆され、戦後出版されたその著書「奇妙な敗北 1940年の証言」(平野千果子訳、岩波書店。なお、訳者の解説は、残念ながら的外れも甚だしい)に描き、ここに至ったフランスの無防備ぶりとこれを招いたフランスの政治と社会を痛切に批判した。
仏独国境線を中心とした防御陣地であるマジノ線の強化にとらわれた古い軍事戦略、ドイツ軍の圧倒的航空戦力による空爆の恐怖、強力な戦車を用いたすさまじい高速度の進撃、これに対するフランス軍将兵の動員の遅れ、無防備都市宣言や兵器生産の遅れに象徴される日常的利害にとらわれたフランスの国民意識、このような国民を形づくった、非現実的で実証的精神を欠き、平和の幻想を振りまいたメディアや教育の在り方などが鋭く指摘されている。その批判は、著者の後の運命を考えれば、その遺言とも言うべきものであり、なおさらに胸に迫る。
同じくこの戦争にイギリス軍との連絡将校として関与した作家アンドレ・モーロワは、アメリカに逃れ、40年10月、「フランス敗れたり」(高野彌一郎訳、ウェッジ、中西輝政氏の示唆に富む解説が付されている)を著して、フランスの敗北の直接・間接の原因を論じた。モーロワによれば、敗北の原因は、直接には、準備の不足、すなわち時を無為に過ごしたことであった。 戦車・航空戦力において、フランスは、圧倒的に劣勢であり、イギリスも同様であった。
そして、準備不足の原因は、更に次の点に求められる。フランス社会は、左右両派はもとより、ドイツ寄りの政策を主張する者など、各種の勢力に分裂し、政治は、その間において時々の世論に容易に左右された。その中において、国際連盟の平和維持機能への根拠のない過大な信頼、ドイツの宣伝にも利用された反英主義(反面ナチスの危険性・残虐性は過小評価された)、マジノ線の防御力の過大評価、これと表裏をなす、ドイツは中立国ベルギーを侵すことはないという間違った信頼、国民の日常的利害にとらわれた政治によるドイツの急速な軍備拡張という国際的現実の軽視、これらが当面する危機を直視することからフランスを遠ざけた。結局、フランス国民は、自ら信じたいことを信じたのである。
以上、両著の要約を書き連ねたが、成熟し、それゆえに衰退に向かう代表民主制国がどのような罠に陥ったのかは、これ以上論じる必要がないであろう。このようにして、壮麗なパリ市街を造り上げ、輝かしい芸術と学問の精華を生み出したフランスは、敗れ去った。
次の挿話は注目を要する。すなわち、モーロワは、1935年、後に首相としてイギリスを勝利に導いたウィンストン・チャーチルから次のような警告を受けていた。
「モーロワ君、小説を書くのはやめ給え。 ….その代わり、一日一篇評論を書くんだ。…その評論も、内容はただ一つだ。…. フランスの空軍はかつては世界第一位であったが、今日では第四位か五位に転落している。ところが、ドイツの空軍はかつては微々として無きに等しかったのが、今日では世界第一位に迫ろうとしている。…君はフランスへ帰って、この事実を毎日書き立てるんだ。 フランスが君の説に耳を傾けるようになれば、君は・・・遙かに偉大なる業績を残すことになる」。
チャーチルは、専門家ではないと弁解する著者に対し、フランスの滅亡の可能性を説き、力を伴わない文化は明日にでも死滅すると述べたという。著者は、チャーチルの助言には従わず、後悔とともに、この警告を「フランス敗れたり」の冒頭(同書10~12ページ)に記すこととなる。