書誌
Emma Goldman
“Emma Goldman (June 27, 1869 – May 14, 1940) was a Lithuanian-born anarchist revolutionary, political activist, and writer. She played a pivotal role in the development of anarchist political philosophy in North America and Europe in the first half of the 20th century.” —from wiki;
My Disillusionment in Russia; Google Play, LA CASE Books版
本書にはテキストに関する詳細な説明が欠けているが、Wikiによれば
My Disillusionment in Russia. Garden City, New York: Doubleday, Page and Co., 1923
My Further Disillusionment in Russia. Garden City, New York: Doubleday, Page and Co., 1924
の2書を併せたもののようである。Wikiの本書に関する項によれば、本来原稿は両者を含むものであったが、出版社において一部を著者に断りなく削除したため、削除部分をMy Further …として出版したものという。両者を併せたものは
My Disillusionment in Russia (London: C. W. Daniel Company, 1925)
として出版されたとのことである。おそらく、本書はこれに基づくものであろう。
概要と評価
著者は、危険なアナーキストとしてアメリカを追放され、ロシアに送られた。著者は、1920年初頭から1921年12月まで1年11か月の間ロシアに滞在し、ペトログラードやモスクワの状況を見聞したのみならず、革命史博物館に勤務して、その資料収集のためにウクライナ等各地に赴いて調査を行った。
本書は、アメリカ人やアナーキストのネットワーク、ユダヤ人コミュニティ、各地での調査(ボリシェヴィキ官僚、教育文化関係者等と接触した)を通じて知り得た情報を中心として、「革命」の実像とこれへの幻滅を記すものである。なお、『世界を震撼させた十日間』を書いたジョン・リードは、友人であり、著者のロシア滞在中に死亡した。
アナーキストの多くは十月革命を支持し、著者もその一人であったが、プロレタリアートの独裁なるものが実際にはボリシェヴィキの独裁にほかならず、政権の維持のために、思想表現の自由を始めとして人類が達成したヒューマニズムに基づく基本的な価値がことごとく否定され、「ブルジョア」的な「センチメンタリズム」として嘲笑されている現実を目の当たりにして、次第に「革命」の意義に疑問を抱くようになった。
ボリシェヴィキによる経済社会全般の管理、膨大な党官僚の出現、それによって生まれた巨大な非効率性と飢餓、無政府主義者を含む反対者への過酷な弾圧、拷問、裁判手続なしの処刑、長期の劣悪きわまる拘禁、小規模な私的経営者、さらにはインテリゲンツィア(著者の用語に従った)を含む「ブルジョアジー」(本書の例はすべて小独立自営業者あるいはインテリゲンツィアである)への迫害、その資産の略奪と、チェカー官僚による私物化、チェカーを始めとするボリシェヴィキ官僚の腐敗、ボリシェヴィキ指導者らの人民の犠牲の上に立つ比較的豊かな生活(食料、住宅等。このような差別化のためにレストランは複数設けられていた)、第3インターナショナル等の会議への参加者に対する特別な処遇(パーティでの飲食は徴発・没収という名の略奪によって支えられていた)と、悲惨な現実の隠蔽、革命の成果の虚飾(これらは、ナチズムとそっくりである。本書に「ファシズム」の言葉はないが、ボリシェヴィズムは一つのファシズムであろう。ナチズムの敵「ユダヤ人」を「階級敵」に置き換えよ)、これらの現実を前にして、著者は、内戦や列強の干渉によるやむを得ない状況であると自らに言い聞かせようとするが(ジョン・リードはこの立場をとった)、その疑問は次第に強まり、1921年3月、ボリシェヴィキに反対して立ち上がったクロンシュタット水兵に対する、反革命プロパガンダと軍事的鎮圧(鎮圧命令に従わないものは処刑された)によって遂にボリシェヴィキに対するすべての信頼を失うに至った。
ボリシェヴィキは反対勢力のメディアを奪い、情報を独占していたため、著者は、例えばフィンランド人共産主義者の間における内紛とこれに伴う殺人事件を、ボリシェヴィキの支配する新聞の情報によって白軍勢力によるテロリズムであると信じ、このような非常事態によって自らの疑問を封じ込めようとしていたのであるが、クロンシュタットに関する事態の動きは、遂にこのような躊躇を一掃した。
クロンシュタット水兵の要求やボリシェヴィキのこれへの対応は、比較的詳しく記されている。また、1920年末の労働組合論争についても詳しい。この論争におけるレーニンらの、反対論者を排除するための強権的な対応は目に余る。本書全体から判断すると、おそらく1920年から21年にかけての冬は、ボリシェヴィキ政権にとって真の危機であった。労働組合論争もその危機の現れであろう。
レーニンは、この危機を新経済政策への転換により乗り切ろうとした。新経済政策は、クロンシュタットの事態の直後に発表されている。
著者はレーニンとも面談している。レーニンは、アメリカにおいて差し迫る革命の到来への期待を表明し、著者はその余りにも浅薄な情勢認識に驚かざるを得なかった。また、著者が提起したアナーキストの釈放に関して、レーニンは、表現の自由といったブルジョア的なものに構うことはできないと述べた。レーニンは、この文脈において農民との闘争を論じている。
なお、レーニンは、その長い亡命生活にもかかわらず、外国語を話すことはできないと述べたという。著者は不十分なロシア語を使わざるを得なかった。レーニンの外国語の能力については、これと全く反対の見解もあるように思うが、どちらが本当なのだろうか。ロシア語以外は話せなかった、その可能性も高い。
著者は、目的は手段を正当化する、収奪者を収奪する、その思想をレーニンに見て、失望を深めた。なお、著者によれば、チェカーは収奪者(robbers)から収奪し(rob)、それを自らのものとしたにすぎない。人民は相変わらず飢えと日々闘わざるを得なかった。
本書の最後の部分は、十月革命の破綻を理論的に説明しようとするものである。
ロシアの当時の現実の下での私的経営と市場の破壊、これが「革命」の失敗をもたらした、このような社会主義者による一般的な説明を著者は否定する。著者は新経済政策にも批判的であり、これを国家資本主義の名で非難する。
ロシア革命は、労働者農民の力、ソビエトに結集したその集団的な力と創意によって生まれた(これにはロシア農民の共同体への志向が有利に作用した)、このことを著者は強調し、ボリシェヴィキによる経済社会の全面的な管理がなければ(この「プロレタリアート独裁」による経済社会の全面的掌握は、著者によれば、マルクスに始まるものである)、すなわち、協同組合や労働組合による自発的で自由な活動が弾圧されなければ、革命は成功し得たと主張する。
ロシアの労働者・農民の誤りは、政治的訓練を欠き(上記の共同体への志向の反面において)、ボリシェヴィズムの空論的約束を簡単に信じたことであった。
しかし、問題は、協同組合や労働組合による生産や消費の共同があったとしても、諸組合間における資源の配分をどのように行うかであろう。効用の支配と交換に関する秩序が、すなわち所有と交換に関する一定の秩序がなければ、それは不可能である。著者の拠って立つanarcho-syndicalismは、これに何らかの解答を与えているのだろうか。
著者は、また、革命の成果は、その過程によって形成されることを主張し、目的が手段を正当化しないことを繰り返し述べる。著者によれば、革命に向かう運動の過程において、あらゆる権威に縛られない自由な人と人との関係が生まれ、遂に社会全般の価値を転覆する。それこそが著者にとっての「革命」である。その理想は美しい。
なお、インテリゲンツィアと労働者の対立については、知識労働とそれ以外の労働の差がなくなりつつあることを指摘し、両者の対立が解消に向かう条件が生まれていることを主張している。これは重要な指摘である。
本書は、様々な情報を含み、また、長期にわたって少しずつ読み進んだため、以上の要約と感想は網羅的ではない。
その他の注目点としては、次のものがある。
クロポトキンとの会話とその死。クロポトキンは、協同組合(cooperatives)の重要性を指摘し、その破壊を批判していた。クロポトキンの追悼のために、アナーキストらがボリシェヴィキの迫害を耐え、交渉によって一定の譲歩も得て(譲歩しなければ、ボリシェヴィキ政権の追悼儀礼の受入れを拒否すると主張した)、整然と追悼行進をする場面は、感動的である。
Nestor Ivanovych Makhno、ウクライナのアナーキスト革命家による革命政権をめぐる記述も興味深い。
マリア・スピリドノヴァ、Maria Spiridonova(左翼社会革命党の指導者。1884-1941。1918年、ボリシェヴィキと対立して以来、逮捕、精神疾患を理由とする拘禁等を経て、1941年、処刑された)との会話。
著者は、チェカーの監視をくぐり抜けて、スピリドノヴァと面談することに成功した。彼女は、ボリシェヴィキのブレスト・リトフスク講和、農作物の強制徴発、反対勢力に対する過酷な弾圧、これらを指摘して、ボリシェヴィキ政権への強い反対を表明した。
ルナチャルスキーを指導者とする教育改革はボリシェヴィキの誇る成果であった。確かに学校は整備された。しかし、自由な教育が行われているわけではない。また、一部の学校が優遇され、外国人訪問者に対するショーケースとして利用されている実態が描かれる。
また、1920年、レーニンの姉妹、中央教育デパートメントの長、ウリヤーノヴァが署名した秘密指令は、宗教関係の書以外の非共産主義的な書籍を全国の図書館から一掃し、紙の再生に充てることを命じた。
芸術については、自由の抑圧の結果、一部の例外を除き、見るべきものがないことが指摘されている。Alexander Blokは、1918年、赤軍を讃える詩、The Twelveを書いたが、間もなく革命の現実に絶望し、死んだ。
こうして我々は、シモーヌ・ヴェイユの、ジョージ・オーウェルの、カミュの思索が出発した場所に立つ。ポスト・モダニズムの極致にあるこの地からは遠く離れた所に、それはある。
以上の記述からも明らかなように、ロシア革命をめぐっては様々な情報がいまだに隠されたままである。自由なメディアがなく、共産党がすべての情報を独占的に管理した社会の歴史を解明することは、容易なことではない。
2024/04/29