「歴史」との遭遇 Encounter with the “History”

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「歴史」との遭遇

(この投稿の一部は、別投稿 Six Weeks in Russia in 1919 に基づいています。)

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか ― ポール・ゴーギャン 1897年

1 歴史と今


 2022年2月24日、ロシアはウクライナへの侵略戦争を開始した。それから1年余りが経った今も戦争は続き、非戦闘員を含めた多くの人々が傷つき、死んでいる。
 1914年に始まる第1次世界大戦、1917年のロシア帝政の崩壊と十月革命、1933年のナチスによる政権掌握、ドイツのチェコスロバキア侵攻と、これに引き続く第2次世界大戦、そして戦後の東西冷戦とソビエト連邦の崩壊、これら一連の20世紀 ―「戦争と革命の世紀」に始まる歴史は、ここに一つの円環を閉じ、既に見た光景が再び眼の前に出現しつつあるように感じられてならない。
 人は生まれ、死ぬ、その時と所を選ぶことができない。身にしみてそのことを感じざるを得ない。人が否応なくその中に投げ込まれる世界は、個々の思いとは直接には関わりなく、刻々と相貌を変えていく。それは我々にとって所与のものであり、その中で、与えられた「自由」の下に、これに立ち向かい、参加し、道を拓いていくしかない。その「不条理」を生きるための糧が「古典」であり、「歴史」であろう。
 既に過去となった事実を変更することはできない。歴史学もまた社会科学であるならば、その前提には、歴史過程の法則の解明、すなわちその因果的過程の把握があるはずであろう。しかし、歴史を形づくっていくのは、具体的な人またはその集団の思想と行動である。すなわち、それは人が何らかの動機によって何かを目的として意識し、その実現のために行動すること、その膨大な集積の上に築かれていく。気象予報においては、スーパー・コンピュータに大気の状態に関する諸情報を与え、その変化のシミュレーションを行う。しかし、このようなシミュレーションをもってしても、天候を確実に予測することは難しい。そして歴史は、はるかに複雑である。また、歴史が法則的なものに支配されるのであれば、それを学んで行動したところで未来を変えることはできないのではないか、そんな疑問が当然に湧いてくる。「歴史とは何か」という問いをめぐって様々な歴史家が論じているのもこのことによるのであろうが、未だ明快な答えに出あっていない。
 おそらく答えは、団藤重光博士の言葉を借りれば「決定されながらも決定して行く」(『刑法綱要総論第三版』(創文社、1990年) 35頁)あるいは「決定されつつ決定する」という人の本性にあるのであろう。人は世界のすべてを知り尽くすことは到底できない。何かの対象を変化させるために、その限られた場面において、自然・社会の必然的な動きを、すなわちその法則性を探求し、これを適用し、自らが望む結果を生じさせると予測された行動をとることによって変化を生む。人の行動の決定は、このような限られた範囲の知見に基づく未来に向かっての「自由な」意識の働きである。私見ではその働きもまた法則的決定を免れないが、決定する意識の主体から見れば、それは開かれた決定である。「決定されつつ決定する」との言葉の中の前の「決定」の語と、後のそれとは、意味が異なる。そして、人が歴史に学び、よりよい世界を求め、その実現に向かって行動することもまた、歴史の必然的な過程の中にある。

2 事実の探求と歴史叙述


 歴史は物語られる。それは政治・外交において利用され、復讐が敵対と戦争を正当化する。しかし、心地よく都合のよい物語を避け、歴史を事実の探求という確固とした基礎の上に立たせることが今日の叡智であろう。
 とはいえ、歴史的事実の探求は誠に難しい。事実の解明とは、両手で水をすくうような、こぼれ落ちていく事実の中からようやくそのごく一部をすくい取っているような、そんな作業であり、多くの事実が指の隙間から流れ落ちていく。目に見える事実の背後には膨大な人の感情・思考・行動の集積がある。虚偽の陳述には事実の一部の沈黙が全体を虚偽にする場合も含まれる。歴史的事実についても、一部の沈黙が全体を虚偽にする。しかも、その実例には事欠かない。歴史の研究は、ほとんど無限にあるといってよい史料の中から意味あるものを選び出して事実を認定し、それら諸事実の法則的連関を解明する作業である。そして私にも、今まで知らなかった事実が歴史に新たな光を投げかけ、全体として別の姿が浮かび上がってくる、そんな経験が度々あった。

3 宮澤賢治とシベリア出兵


 私は宮澤賢治についてのある研究会に長く所属し、賢治の様々な作品やこれに関する評論を読んできた。賢治の生涯とその作品に関する論考は今や余りにも多く、描かれる賢治像も様々である。賢治は、独特な、時に難解な語彙を豊かに用いて様々な作品を創り上げており、このような作品世界の謎めいた、際限のない多様性あるいは多義性がその魅力となっていると言うこともできる。ところで、同研究会は賢治の短歌作品の読書会を続け、この度、その成果を取りまとめることとなった。私もファン・ゴッホの糸杉の絵にちなんだ「サイプレス/忿りは燃えて/天雲のうづ巻をさへ灼かんとすなり。」の一首(歌稿B759、『新校本宮澤賢治全集』筑摩書房。以下、賢治作品等の引用は同全集による)を担当し、これに関する原稿を書くため、改めて1921年前後の賢治をめぐる伝記的事実を調べ、その過程でロシア革命が当時の我が国の社会に与えた衝撃、引き続くシベリア出兵の影響等を知ることになった。
 賢治は、1896年、岩手県稗貫郡花巻町において、質屋及び古着商を営み商才に富んだ父の下に長男として生まれた。家業を継ぐことを期待されていたため、思うように進学がかなわなかったが、何とか父の許しを得て、1915年に盛岡高等農林学校農学科に進学した。1918年同科を卒業した後、1920年まで研究生として在校し、稗貫郡土性調査(地質土壌の調査)にも加わった。その後、家業を手伝った。
 賢治はこの間、1914年に島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を読んで異常なまでの感銘を受け、法華経を信仰するに至り、1920年には田中智學が主宰する国柱会に入会した。田中智學は、日蓮の教えに依拠して様々な人種・風俗からなる多様な世界の平和と統一を説き、高山樗牛ら知識人の支持を集めていた。「八紘一宇」の語を用いたことでも知られ、石原莞爾が会員であったことなどから、軍国主義の思想家として批判されることもあるが、第1次世界大戦の悲惨な現実を前にして平和を訴え、また死刑制度に反対するなどの一面を併せ持っていた。石原莞爾についても、満州事変後の日中戦争の拡大に反対していた事実があり、一刀両断の評価は必ずしも適当ではない。
 賢治は、父の浄土信仰と家業に対する反発に苦悩する日々を送るうち、1921年1月23日の夜行列車に乗って突然上京し、国柱会を訪ね、本郷区菊坂町に下宿して、印刷校正や謄写版原紙切りの仕事をしながら、同会の活動に参加するとともに、童話等の創作に没頭した。
 賢治の多感な青年時代は、第1次世界大戦とロシア革命の衝撃の下にあった。
 1917年11月、ボリシェヴィキは、軍事クーデターによって政権を握り、二月革命後に決定された選挙を経て構成された憲法制定議会を解散して反対政党を弾圧し、急進的な政策を強行して、食糧、燃料等の不足による激しい飢餓と欠乏を招いた。1918年7月にはニコライ2世とその家族全員、侍医及び召使いが殺害された。同年8月には社会革命党員ファニィ・カプランによってレーニンが銃撃され、瀕死の重傷を負った。その後、反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(「チェーカー」)を中心とした「赤色テロル」の嵐が吹き荒れた。裁判もなく多くの人々が処刑された。犠牲者数はもとより確定されていないが、「反革命」の名の下におおよそ5万から14万の間の数の人々が殺害されたと言われている(リチャード・パイプス『ロシア革命史』(成文社、2000年) 234頁)。
 その後、1920年から21年にかけて飢餓は深刻化した。農村からの強制的な食糧徴発は、農民の反乱を招き、ペトログラードの労働者もストライキに訴えた。1921年3月には、革命に貢献のあったクロンシュタット水兵らの反乱が起こった。彼らの要求は、言論の自由、政治犯の釈放、公正な選挙、農民・小生産者による生産物の自由な処分の公認等であった。赤軍兵士は、後方に配置されたチェーカーの銃殺部隊に追い立てられてクロンシュタットを攻撃し、反乱を鎮圧した(パイプス前掲352頁)。そして、ボリシェヴィキ政権はこれと前後して、水兵らの経済面での要求とも一致する新経済政策(NEP)を決定し、実施した。
 1920年から1922年までの間の飢餓及びこれに伴う病気で死亡した市民は510万人に上ったと推定されている。アメリカ等の救済機関の給食や医薬品援助によって救われた者も少なくなかった(パイプス前掲361、362頁)。
 この間、ロシアは内戦状態にあり、反ボリシェヴィキ軍を支援するため、第1次世界大戦連合国によってシベリアへの共同出兵が行われた。日本は1918年8月から1922年10月まで7万人を超える兵を派遣してシベリア東部各地を占領し、反ボリシェヴィキ軍を支援するとともに、自らの勢力圏を築こうとした。戦費は約10億円に上り、戦死者は3,500人を数えたと言われる(吉村道男『世界大百科事典』平凡社)。
 盛岡高等農林学校に学ぶ賢治らへの影響は、賢治が保阪嘉内らの友人とともに発行していた文芸誌『アザリア』の内容に現れている(「アザリア」はアザレア(西洋ツツジ)を指す。当時は珍しい外来種であった)。賢治や嘉内は、短歌や短い随想などを同誌に寄稿した。賢治が寄稿した短歌は、後の『春と修羅』の口語詩につながるものであり、「心象」の類似性を強く感じさせるものも多い。石川啄木(啄木の啄は旧字体)の影響の下に、短歌は当時の青年たちの間において啄木のいう「時代閉塞の現状」(同題名の評論、1910年)を打ち破るための表現の手段となっていたと考えられる。
 1918年2月のアザリア第5号には、保阪嘉内が「社会と自分」と題して「今だ、今だ、世のあらゆるものの上にあって住むべき時がわれに来った。…… /……おれは皇帝だ。おれは神様だ。/おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム。」との短文を寄稿している。「ナイヒリズム」は「ニヒリズム」であり、嘉内の真意は必ずしも明らかではないが、ロシア革命に触発されたアナーキーな全能感を表現しているものと理解される。嘉内はその後、除名(退学)の処分を受けるに至った。理由は明示されなかったが、おそらくこの寄稿が危険なものとみなされたことによるのであろう。
 この記事に先立ち、1917年12月のアザリア第4号には「Aと云ふ字」と題して「aと云ふ字をよくよく考へればきちがひになる/……私はいかにもこの世界に相当したものだ。ロシヤのごろつきも肥った牧師も、ちんばの馬もみな私の中に居る」などと書かれ、「Bと云ふ字」と題して「命懸けと不真面目、不真面目な馬は命懸けで遁走する、御座敷がかゝるのを待ってゐるひとには大したことは出来ない 頑張れ、頑ン張れ しっかり頑んばれ/Bと云ふ字が丁度、われわれの心を代表してゐる。」と記されている(差別的用語が含まれているが、論述の対象として引用した)。作者名がないが、新校本宮澤賢治全集の注記者は賢治が関与した可能性を示唆している(16巻上270頁)。この記事の意味に関して他に書簡や回想等の資料は見当たらない。また、文面からはその真意を確定することはできない。しかし、発行直前のロシア十月革命や、その後間もなく活発になった「アナ・ボル論争」(アナルコ・サンディカリズムとボリシェヴィズムの間の論争)を考え併せると、一仮説ではあるが、アナーキズム(「A」)とボリシェヴィズム(「B」)を対比したものではないかと思われる。アザリアの同人たちの少なくとも一部は、十月革命に現れた「ユートピア」への無謀な突進とも見えるボリシェヴィキの大胆な行動に共感したのではないだろうか。なお、西洋古典学者の田中美知太郎(1902年-1985年)は、その自伝『時代と私』(文藝春秋、1984年)第3章「大正時代の思想経験」に、1917年から1923年までアナーキストの団体に出入りし、大杉栄、堺利彦、三田村四郎らのアナーキストやコミュニストの言動に触れた経験を記している。賢治が青年時代を生きた大正は、様々な社会思想が生まれ、ぶつかり合う怒涛の時代だった。
 その後のシベリア出兵に続く事態は、徴兵と戦死への恐怖を呼び起こした。
 賢治は、1918年4月から5月にかけての徴兵検査の結果、現役を免除される第二乙種(ただし、現役欠員の補充兵として徴兵される可能性がある)とされた。同検査を前にした同年2、3月の書簡にはロシア情勢や兵役についての不安が述べられている。父政次郎宛ての書簡には「誠に幾分なりとも皆人の役にも立ち候身ならば空しく病痾にも侵されず義理なき戦に弾丸に当る事も有之間敷と奉存候。」との記述がある。賢治はその後同年6月30日に肋膜炎と診断され(当時、結核初期の症状が肋膜炎と診断される例が少なくなかった)、そのころ友人河本義行に「私のいのちもあと十五年はあるまい」と告げている(保阪庸夫ほか『宮澤賢治 友への手紙』筑摩書房、1968年)。賢治は、その言葉どおり、15年後の1933年に死んだ。ちなみに偶然とはいえ、ゴッホもまた、賢治と同じく37歳で死に赴いている。
 1921年1月の突然の上京と国柱会訪問、その後の自活生活と信じられないような創造力の爆発は、このような社会情勢の下において、元来家業を継ぐことに反発していたことに加えて、農村の窮状や社会的不平等に対する怒りを抱く一方、自らは社会的指弾を浴びる立場にあると感じていたこと、父との信仰をめぐる口論、戦争の先行きや結核の進行に対する不安と焦燥、アザリア時代に引き続く激しい創作への意欲、これらを背景として自ら道を拓こうと決意したことによるものと思われる。
 先に挙げたゴッホの描く糸杉を題材とした短歌は、このころに作られたものである。それは、空高く上昇して天雲をさえ灼こうとする青年賢治の果てしない希望と決意、そして、これに伴う不安を詠ったものであろう。当時、武者小路実篤らの白樺派の人々は、雑誌『白樺』や『エゴ』によってゴッホを盛んに紹介し、ゴッホの手紙もいち早く翻訳されていた。社会的に恵まれた階層に育った知識人たちにとって、ゴッホの生涯と作品は自由な芸術活動によって人類に貢献する道を示唆するものと思われた。羅須地人協会における農民芸術の主張と実践を含めて、賢治の生涯は、このような希望と決意に貫かれている。
 賢治は、その後も国柱会に所属し、生涯にわたって信仰を変えなかったが、その一方で労働農民党(労農党)を支持し、密かに財政的支援も行った(名須川溢男「宮沢賢治について」岩手史学研究50号、1967年)。「きみたちがみんな労農党になってから/それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ」との詩もある(〔黒つちからたつ〕)。また、詩「高架線」は1928年の東京の光景を描き、その中に「労農党は解散される」の言葉が見える。「ほんとのおれの仕事」を始める時が来ることは遂になかった。

4 アーサー・ランサムとロシア革命


 私は、退職後しばらくの間、翻訳の学校に通ったことがある。出版翻訳のコースを選び、専門外の現代英語、特に今現在の口語の翻訳の難しさを味わった。インターネット上のオンライン辞書や実際の用例などを検索してもなお明快な答えがなく、講師及び受講生の間でも意見が分かれることがあった。そういう場合は結局、文脈をいかに理解するかによって決めるしかない。そして、「文脈」の理解は、その人のこれまでの経験や知識によって左右される。改めて「誤訳」が必然的であることを知った。
 授業の中には、出版社への翻訳提案に用いるシノプシス(梗概)の作成に関する指導もあった。受講生それぞれが翻訳したいと思っている書籍、あるいはこういう書籍の翻訳なら売れるのではないかと思うものについてのシノプシスを作成する。その内容はもちろん、書籍の選択そのものに、人様々それぞれの個性が表れている。
 私は、インターネット上を著作権切れの適当な著作がないかと探し回り、どういう偶然か、アーサー・ランサムのルポルタージュ「Six Weeks in Russia in 1919」(1919年6月ロンドンにおいて出版。https://archive.org/details/sixweeksinrussia00ransuoft。以下「Six Weeks」という)を見つけた。十月革命後間もなくのロシアの姿が著者の見聞したままに描かれており、今まで「戦時共産主義」の一言でかたづけていた実情がまざまざと理解できた。さほど売れるとは思われなかったが、著者の名前と、ロシア革命後ちょうど百年が経とうとしていること、何よりも著作権切れが間近であることから、これについてシノプシスを書いた。
 アーサー・ランサム(Arthur Ransome 、1884年―1967年)は、賢治と12年違いで生まれている。『ツバメ号とアマゾン号』シリーズで世界的に広く知られる作家であり、同シリーズが岩波少年文庫に収められているほか、『アーサー・ランサム全集』(岩波書店、1967年)が出版されている。
 私は『ツバメ号とアマゾン号』の題名を小学校の図書室で何度か目にした記憶がある。読んだかどうかは思い出せない。ヨットの操船に関する言葉がたくさん出てくるので、理解が難しかったのかも知れない。このシリーズは、少年少女が協力してヨットを操り、様々な冒険をする物語であり、主人公たちの友情と協力、苦難にめげず、ジョークを飛ばしながらこれに立ち向かうイギリス的なユーモアの精神が印象的である。
 シリーズ中の『女海賊の島』は、ケンブリッジ大学に学び、研究生活に憧れ、ラテン語に堪能な、中国沿海のある島を拠点とする女海賊ミスィー・リーと少年少女たちの物語であり、ミスィー・リーが少年少女たちにラテン語の学習を無理強いする場面など、誠に楽しい。よくも悪くも大英帝国の面影が浮かぶ小説である。なお、翻訳者である神宮輝夫によると、ミスィー・リーの造型には、著者の中国旅行における宋慶齢との面談の影響があるという。
 ランサムは、1919年1月末から約6週間、ペトログラード及びモスクワに滞在し、ジノヴィエフやレーニンを始めとして様々な人々と面談し、その見聞をSix Weeksに取りまとめた。ランサムが見たのは、激しい赤色テロルが去ってやや落ち着いた状態にあるものの、飢えに苦しみ、寒さにこごえる人々の姿だった。革命の熱狂はユートピアの喪失へと変わっていた。
 『アーサー・ランサム自伝』(白水社、1984年。原著は1976年)には、この時代のことが比較的詳細に記されており、スターリンによる大粛清を経て、ランサムの知り合いのボリシェヴィキが次々と処刑されていったこと、革命の歴史がこうして書き換えられたことがランサム個人の感慨とともに指摘されている。
 ランサムはイギリス外務省やロンドン警視庁の幹部と連絡があり、Six Weeksに描かれたロシア行も彼らとの緊密な連携の上でなされた。ランサムは列強によるロシア革命に対する干渉戦争に一貫して反対していたため、ロシア入りを許されたものと思われる。
 ランサムは帰国後タイピストに口述してSix Weeksを書き上げ、1919年6月12日に出版した。比較的冷静で客観的な内容であることなどから、膨大な数が売れ、大成功を収めたという(ヒュー・ブローガン『アーサー・ランサムの生涯』筑摩書房、1994年)。ただし、Six Weeksにおけるランサムの記述がすべてその体験に基づくものなのか、一部、伝聞や推測を自己の経験した事実として述べていないかについては、今後他の史料との比較による検討が進められるべきであろう。
 ちなみに、初代長官スミス=カミングに率いられた、1916年から1921年にかけてのSIS(イギリス秘密情報部)の活動を描く、ジャイルズ・ミルトン『レーニン対イギリス秘密情報部』(原書房、2016年)は、ランサムをSISの協力者であったと指摘し、その一方でランサムがボリシェヴィキの同調者であるとの見方が存在したとも述べている。おそらく、ランサムが列強の干渉戦争に対して一貫して反対し、イギリス政府の要人にもその旨進言していたことから、このような評価がなされているのであろう。
 Six Weeks が描くロシアは、飢えと寒さに苦しんでいた。食糧は乏しく、わずかな量が配給されるにすぎない。燃料が不足し、暖房が行き届かないため、至るところで水道管が凍結し、破裂している。輸送は滞り、エネルギーや原材料の不足のため工場は思うように操業できない。
 ボリシェヴィキ政権の急進的な政策の下で、産業の国有化が一挙に進められ、私的経営とその生産物市場が破壊され、生産物と資源の配分は権力的・行政的に行われるようになった。農業生産物は、農民から強制的に徴発された。そのため、農民は防衛策として生産物を隠匿し、あるいは生産そのものを縮小した。そして食糧その他の必需品の闇市場が必然的に生まれた。1920年から1921年にかけての大飢饉はこのようにして準備されたのである。
 しかし、このような状況の下においても「ユートピア」を信じ、これを目指す人々がいる。例えば、国家建設委員会議長のパブロヴィッチは、鉄道等の建設に携わっている。内戦での勝利がすべてに優先し、また、資材も不足しているために、建設は遅々として進まないが、それでも運河、鉄道、道路等の建設は進みつつあると述べる。寒さのために、同僚は次々と倒れ、彼自身の片方の手もこごえて麻痺してしまっている。 彼の同僚の中には、ランサムの知合いの、かつてボリシェヴィキ反対を唱えていた者も含まれていた。
 ランサムは、次々と政府各部を訪問し、実情を尋ねた。公共経済最高評議会、財務委員部、繊維産業中央局、外国貿易及び武器委員部、農業委員部、労働委員部、教育委員部などである。これらの各部門では、十月革命反対派(ボリシェヴィキ内にもジノヴィエフを始めとして十月革命に反対した者が少なくなかった)も、メンシェヴィキも、革命前からの技術者・専門家も、ボリシェヴィキとともに寒さと飢えの中で、生産と輸送、資金の調達、教育、労働者保護等のために働いていた。
 大学の数は増え、教育は無料であり、ロシア文学の古典やレーニンと対立したプレハーノフの全集まで、紙不足の中で各種の書籍が印刷されている。このような一種ユートピア的な光景が存在する一方で、労働者の権利はむしろ縮小された。工場は国家のものであり、そこに働く労働者の管理にゆだねるべきものではないと担当者は述べる。
 しかし、これらの知識人たちの努力は、経済が労働を始めとする生産要素の複雑な配分によって成り立っていること、それが市場という機構によって実現されていることを理解せず、一挙に権力的・行政的な方法で「共産主義」の実現を目指すものであり、歴史の後の経過によって明らかなとおり、当然にも失敗した。折からの紙幣増刷に伴うインフレーションについて尋ねるランサムに対して、財務人民委員のクレスティンスキーは、今や、紙幣増刷と、共産主義的な貨幣なしの現物交換による経済への変革過程とが競争しているのであり、共産主義的な経済が最後には実現すると述べるのだった。
 ボリシェヴィキはロシア革命に引き続く「世界革命」に期待をかけた。イギリスではロシアにおけるような革命は起きない、これはランサムの確信であり、ことあるごとにボリシェヴィキ幹部に伝えるのだが、彼らは信用せず、近い将来におけるイギリスを含むヨーロッパ革命を待望し、信じている。理論家のブハーリンは50年の間にはヨーロッパ全域の社会主義革命が成就すると豪語し、レーニンは、ランサムの反論にもかかわらず、イギリスが革命前夜にあるとの確信を変えなかった。
 ランサムは社会革命党右派のヴォルスキー、メンシェヴィキのマルトフらの意見も記している。社会革命党左派のスピリドノヴァにもインタビューしようとするが、その直前に彼女は逮捕された。マルトフらは、一様に、ソビエトの権力なるものがボリシェヴィキの独裁にほかならないことを指摘する。マルトフは、新聞の発行を禁止され、活動の余地がますます狭まっているにもかかわらず、飢えと寒さに苦しむ大衆を扇動してボリシェヴィキ政権を転覆することには反対する。それが成功しても、ボリシェヴィキの後には極端に反動的な政権が生まれるだけであろうというのである。ロシアは社会主義を実現できる状態にはなく、農民は社会主義を望んではいない、マルトフは、ボリシェヴィキ政権はこのような状況に直面する中でその政策を変えて穏健化するはずであり、さもなくば政権を失わざるを得ないと主張するのである。そして、ヴォルスキーも同じ見解を示す。
 しかし、歴史は反対の事実を証明した。新経済政策が導入され、市場が一部復活したが、一時的な政策に終わり、富農絶滅運動とともに、強制的な農業集団化が進められた。また、大規模な粛清により、多くの者がラーゲリでの強制労働に従事した。「社会主義的原始蓄積」を主張する者さえ現れ、国家による全面的な経済統制の下で、重工業化が強行された。反対派はチェーカー等による無制限の暴力の前には無力であった。そして、各地の農民反乱、都市労働者のストライキやクロンシュタットの反乱は、ボリシェヴィキ政権打倒と権力の掌握を目指す統一的で決然とした政治的・軍事的行動に結びつくことなく、各個に多くの犠牲を伴って鎮圧された。
 Six Weeksの最後は、第3インターナショナルの成立を描く。折からベルンで開催されていた第2インターナショナルの再建を目指す協議会は、ロシアへ視察団を派遣することを決定した。しかし、ボリシェヴィキの間にはその受入れに強硬に反対する意見があり、結局、視察団の派遣は実現しなかった。赤色テロルやその後も引き続く反対派の弾圧、労働者の権利の縮小、農産物の強制徴発等に関して視察団が不利な報告をすることを避けるためだったと思われる。そして、ベルンの協議会に対抗し、その正当性を奪うために、急遽第3インターナショナルの成立が企図された。その創設は秘密裏に進められた。ランサムはブハーリンからヒントを与えられて、これを知り、当初の非公開のときからその会議を傍聴することに成功した。各国の共産主義者が集まり、歴史的な会議が興奮の中で進められた。ドイツのアルブレヒト一人が、すべての国の適切に選ばれた代表が会議に参加しているわけではないこと、この時期における創設は各国における運動にむしろ困難をもたらすと考えられることを理由として時期尚早であると反対したが、人々の熱狂の中で第3インターナショナルの創設が宣言され、「インターナショナル」が合唱された。
 その後ランサムは帰路につき、ペトログラード軍司令官と列車を共にした。その司令官はクロポトキンの崇拝者であり、亡命先のニューヨークから帰国してその地位にあった。彼は、政権のために献身的に働く一方で、ボリシェヴィキ政権を攻撃する者が誰もいなくなったら自分が最初にそれを倒すと豪語し、政権はどのくらいもつのかと尋ねられると「我々は革命のためにあと1年は何とか飢えに耐えることができるだろうね」と答えるのだった。
 これらのランサムの記述から浮かび上がってくるのは、壮大な悲劇としてのロシア革命である。ユートピアの実現を目指した人々の多くはその後粛清された。Six Weeksが描き出すのは、ユートピアと現実の鮮やかな対比であり、その中において英雄的であるとともに悲劇的な人々の姿である。そして、革命と暴力への熱狂は、ナチスを生んで第2次世界大戦の破滅をもたらし、我が国もまた破滅的戦争を戦った。ヘーゲルの「理性の狡知」の言葉が思い浮かぶ。
 これらの歴史をたどると、ロシア十月革命とは、その指導者たちの語る言葉をひとまず捨象して見れば、当時のヨーロッパの中で経済的にも政治的にも著しく遅れたロシアを一挙にイギリス、フランス、ドイツ等と並ぶ先進国に発展させようとする試みであったと評価することも可能であろう。レーニンら急進的知識人は、ロシアの急速な近代化への活路をマルクスらの所説に見出した。それがもたらしたものは、新たな専制と「社会主義的原始蓄積」であった。そして、その経済力に比して軍事力が異常に突出した現代のロシアもまた、このような歴史によって生まれた。

5 おわりに


 歴史は物語でもあり、今現在の人の意識と行動に結ばれている。宮澤賢治とアーサー・ランサム、同じく19世紀末に生まれた東西二人の軌跡は、今どのような意味を持つのだろうか。我々の眼の前の世界をいかに生きていくのか。私見を交えた「20世紀私記」となったが、何らかの参考になればと思う。
 自戒を込めて、最近出あったトゥキュディデスの言葉を最後に記すこととしたい(戦史4巻108章4節。トマス・ホッブズ訳を参考にして誤訳を恐れず意訳した)。
「人間は、そうあってほしいと思うことについては、思慮を欠く、根拠のない希望に基づいてさえ、そうであると信じ、そうあってほしくないと思うことについては、都合のよい論証を見つけて、そうではないと信じるものである。」
 

Historiae, Book 4, 108.4:

καὶ γὰρ καὶ ἄδεια ἐφαίνετο αὐτοῖς, ἐψευσμένοις μὲν τῆς Ἀθηναίων δυνάμεως ἐπὶ τοσοῦτον ὅση ὕστερον διεφάνη, τὸ δὲ πλέον βουλήσει κρίνοντες ἀσαφεῖ ἢ προνοίᾳ ἀσφαλεῖ, εἰωθότες οἱ ἄνθρωποι οὗ μὲν ἐπιθυμοῦσιν ἐλπίδι ἀπερισκέπτῳ διδόναι, ὃ δὲ μὴ προσίενται λογισμῷ αὐτοκράτορι διωθεῖσθαι. (edited by Henry S. Jones)

For they thought they might do it boldly, falsely estimating the power of the Athenians to be less than afterwards it appeared, and making a judgment of it according to [blind] wilfulness rather than safe forecast; it being the fashion of men, what they wish to be true to admit even upon an ungrounded hope, and what they wish not, with a magistral kind of arguing to reject. (translated by Thomas Hobbes)

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