ジョージ・オーウェル 『1984年』
..Date: 2012.12.26;
ジョージ・オーウェル;1984年
テレスクリーンとマイクロフォンにより監視される社会。真理省による記憶の改ざんと操作。全体主義が人間の精神の腐敗に拠って立ち,その腐敗を進めることによって,すなわち,人間精神の破壊によって存続することを,これほどまでに恐ろしくも正しく描き出す、フィクションとは言え,衝撃的である。
しかし,その深い意味を理解し得るのも,これまでの経験によるものかもしれない。精神の腐敗は,思考の腐敗であり,言葉の腐敗でもある。それらは,単純化し,切れ切れとなる。二重思考(doublethink)が生まれ,ニュースピークが広められる。語彙は減り,badは消えて,非goodとなり,名詞・動詞・形容詞は同じ形をとる。それは,奇妙な孤立語である。
官僚制は,多かれ少なかれニュースピークを生み出す。それを見事に形象化したオーウェルの想像力はすばらしい。恐ろしいほど的確なイメージが描き出される。主人公ウィンストンはもとより,オブライエン(全体主義を体現した人物),ジュリア(愛人)等の人物形象は忘れがたい。オーウェル伝を読みたくなる。
『ジョージ・オーウェル評論集』
..Date: 2010.01.12;
ジョージ・オーウェル;オーウェル評論集1,2(平凡社ライブラリー);
全体主義(ファシズムと共産主義)と闘うオーウェルの根源的思考がすばらしい。
ナショナリズム覚書では,ある集団・イデオロギーに同一化し,事実を誠実に見ることができない「ナショナリズム」が分析される。1940年代の評論である。
その他,1940年代の評論が多いが,当時のイギリスの状況が現在の我が国のそれに余りにも近いのに驚かされる。
ソビエトの同調者は,ソビエトの実態を見ようとはしない。ナチス・ムッソリーニの同調者(エズラ・パウンド,G.K.チェスタトンらが挙げられている。本当だろうか)は,例えばユダヤ人虐殺を信じようとしない。これらは,「転移型」ナショナリズムと称されている。
ジェイムズ・バーナム(Burnham)の管理革命の書評もあるが,管理者層の寡頭支配への傾向という主張を支持しつつも,バーナムはスターリンやヒトラーを賛美しているという,驚くべき主張をしている。
バーナムの経歴からは,賛美しているとは到底言えないと思うが,オーウェルによれば,バーナムによる彼らの描写は,残虐性を強調しつつも,一方でその「英雄」性を讃えているというのである。したがって,バーナムは,ドイツの勝利や,ドイツがイギリスに勝利してからのみソビエトに向かうことや,ソビエトは短期間のうちに敗北することや,(ソビエトの勝利が明らかになってからは)ヨーロッパのソビエトによる支配などを予言したのだという。そのときどきの勝者の将来における勝利を予測するのであり,その中にこそ全体主義への賛美があるという。しかし,これは言い過ぎであろう。
もっとも,バーナムがこのような予言をするについては,バーナム自身の民衆への信頼の欠如があるとは言えるのかもしれない。おそらく,バーナムのこれら予言は,嘲笑的・逆説的予言と評価すべきものではないか。もっとも,これらは一応の仮説であり,伝記や管理革命を始めとする著書を検討しないと結論は下せない。
人は信じたいと思うことを信じる,その「ナショナリズム」を去って,文学的誠実性に生きよ,このように考えたオーウェルは時の主流には決してなり得なかった,そのことを思うたびに哀惜の念を禁じ得ない。
「像を撃つ」,ナショナリズム覚書,ガンジーに関する評論,スペイン内乱の回顧,ウェルズ論,これらが印象的である。
ちなみに,オーウェルは,ナショナリズム覚書において,トロツキストや平和主義者をも批判の対象としている。権力の行使に関与しない者の無責任,平和主義者の平和信仰(軍事力と外交力との関係への無知。総じて軍事に関する無知),人間の善性への信仰(戦争における残虐行為は存在する!それも想像し得ないほどの!)等も批判の対象となる。知識人の軽薄さと権威主義・全体主義への傾斜が随所に描かれる。
ジョージ・オーウェルの評論を再び読む。
ジョージ・オーウェル 照屋佳男訳 『全体主義の誘惑 オーウェル評論選』
May 23, 2024 ;
ジョージ・オーウェル、照屋佳男訳; 全体主義の誘惑 オーウェル評論選;
書評:ヒットラー著『我が闘争』、聖職者特権―サルバドール・ダリについての覚書、ナショナリズムについての覚書、文学を阻むもの、政治と英語、なぜ書くか、作家とリヴァイアサン、書評:ジャン=ポール・サルトル著『反ユダヤ主義者の肖像』、ガンジーについて思うこと、を収める。訳文は簡明である。訳者の「まえがき」と「あとがき」は、現代における姿を変えた全体主義的思考の存在に関し、含蓄に富む。訳者による訳出論考の選択は、「全体主義の誘惑」との表題に示されているとおりである。それは、今まさにここで対決すべき誘惑なのである。
既に他の評論集で読んだものもあるが、新鮮な気持ちで読んだ。中でも、ナショナリズムについての覚書がすばらしい。「ナショナリズム」の語は、通常の、ある特定の国家・民族への忠誠のみならず、特定のイデオロギー、あるいは「階級」等の集団への忠誠によって、現実に関心を持たず、歴史的・客観的真実をも捻じ曲げ、不都合な真実に目をつぶり、ひたすらその忠誠の対象を擁護する思想傾向を広く指すものとして用いられている。例えば、ナショナリストにとって、忠誠の対象は決して「虐殺」を行わず、これを行うのはその敵である。
ナショナリズムには、共産主義、政治的なカトリシズム、トロツキズム、平和主義なども含まれる。自らが属する国家や民族を離れたナショナリズムは、「移し替えられた」ナショナリズムと呼ばれる。知識人たちは、その時々の流行に従い、忠誠の対象を移し替え、更に必要があれば、別のものに再度移し替える。
ナショナリズムは、その立場に相容れない事実を決して受け容れない。著者は、それぞれの種類のナショナリストが受け容れることができない事実を、次のとおり列挙する(85,86)。
「英国保守党員: 英国は、今時の大戦の後、国力と威信の衰退に見舞われた形で登場することになる。
「共産党員: ソ連は英国と米国の支援がなかったなら、ドイツに打ちのめされていただろう。
「アイルランドのナショナリスト: エール[アイルランド]は英国の保護があるからこそ独立を保ちうる。
「トロツキスト: スターリン体制はソ連の大衆に受け入れられている。
「平和主義者: 暴力を「誓ってやめる」と主張する人々は、他の人々が彼らのために暴力を行使している場合にのみ、暴力を「誓ってやめる」ことができる。」
文学を阻むもの、政治と英語等は、作家、特に散文作家は、知的に誠実であろうとすれば、自らが感じ、考えることしか書き得ないこと、全体主義(ナチスドイツやソ連などの国家のみならず、全体主義思想全般を指す)は、このような散文の創造を阻むことを論じる。
政治と英語は、自らの感情と思考に忠実でない表現、特に政治的言論が、いかに陳腐な比喩と決まり文句に満ちたものであるか、そして、それがいかに明晰な政治的思考を阻んでいるかを指摘する。
その例証として、ラスキらの論述が、もったいぶった言い回し(ドイツ語、フランス語、ラテン語、古典ギリシア語の使用)や、通常の簡明な言葉の迂回的言い換え(「作用語あるいは言語上の義肢」「受動態」の多用)、現実の事象との対応が不明な「無意味な語」の使用等によって簡明さを失っていることが具体的に示されている。これらオーウェルが指摘する悪習は今日の各種論評を広く、深く覆っている。それはまさに今、ここにおける課題でもある。
著者が提案する散文規則は次のとおりである。
「一 印刷物で見慣れている隠喩や直喩やその他の比喩的表現を決して使用しないこと。
「二 文字の数の少ない語で間に合う時は文字の数の多い語は決して使わないこと。
「三 語の削除が可能な場合には、つねに削除すること。
「四 能動態が使えるところでは受動態は決して使わないこと。
「五 外来語や科学用語や職業語は決して使わないこと、もしも同じ意味の日常語を思い起こすことができる場合には。
「六 上のどれか一つを守って、標準用法から完全に離れた語や句の使用に陥るくらいなら、むしろその規則を破るほうがましだ、とすること。」
レベッカ・ソルニット 『オーウェルの薔薇』
May 10, 2023 ; レベッカ・ソルニット;
オーウェルの薔薇;
オーウェルの生涯とその自然への愛をめぐる随想である。
例によって大衆人(オーウェルが見た炭鉱労働者の悲惨な状況について述べるが、今日の労働者には思いが及ばないようだ。そういったことを「リベラル」として論じるときもあるのだろうが、図らずもその無関心ぶりが表れているのである)、リベラル、ポスト・モダンの、人類は科学を管理できない、科学技術の発達が諸悪をもたらした、との思想に彩られたものではあるが、オーウェルが田舎家(ケンブリッジ付近のウォリントン村)を、農業と庭仕事を、薔薇と樹木を愛したことを美しく描いている。
特に樹木について、人の生命を超えるその長い生命を、著者によればエトルリア語起源であるというsaeculum(ラテン語辞書にあり)の言葉で論じている部分は、詩的でさえある。
オーウェルは1903年に生まれ、1950年に結核により死んだ。
思想に関しては、おばの影響があったことが指摘されている。おばの友人はロシアのアナーキストであった。オーウェルの反全体主義については、彼によってロシアの現実を早くから知っていたことによるのではないかとの指摘もある。
本書の伝記的記述は、オーウェルの田舎屋に関する若干のインタビューを除けば、既存の作品に依存している。
ジョージ・オーウェル 『象を射つ』
September 18, 2022 ;
ジョージ・オーウェル; 象を射つ、 百年文庫47「群」所収;
1936年に書かれたエッセイ。著者は、ビルマで警察官として勤務した。その間の実話と思われる。
著者「わたし」は、イギリスの帝国主義・植民地主義に反発を覚えつつも、嫌がらせをするビルマ人にも嫌悪を覚えざるを得ない。
あるとき、人に使われていた象がさかりによって暴れだし、人を殺す。警察官である著者は、ビルマ人群衆が見守る中で、その期待に応えることを余儀なくされ、他の選択肢があり得たのに、射殺の決断を下し、実行する。その間の状況と心理の動きが緊迫感をもって語られ、思わず読み終えてしまう。
著者の立つ、複雑な状況、それはそのまま我々の直面した、そして直面しつつある状況である。
マイクル・ジョーダン 『人間ジョージ・オーウェル』
..Date: 2012.12.31;
マイクル・シェルダン,Michael Shelden;
人間ジョージ・オーウェル
事実の羅列が続き,時間をかけて読む気を失う。最後の「1984年」執筆当時の部分のみを丁寧に読む。
1984年の理解,すなわち,オーウェルは希望を失ってはいない,というのは,そのとおりであろう。Proleの描き方にそれが現れている。しかし,オーウェルは,どのようにしてかを知っていたわけではなく,それゆえに希望を具体的に提示しえないのである。
また,これが一つのラブ・ストーリーであるという解釈もうなずけるものである。
ただし,バーナム(Burnham)のManegerial Revolutionが1984年に影響を与えたという指摘は正しいと考えられるものの,そのバーナム批判は,もっともオーウェルの批判も同様なのであるが,妥当ではないと思われる。バーナード・クリックの『ジョージ・オーウェル ひとつの生き方』も併せて読むが,輪をかけておもしろくない。
なお,オーウェルが社会主義に傾斜するについては,イングランド北部炭鉱地帯のルポルタージュ「ウィガン波止場への道」の執筆が重要な契機になっているようである。
オーウェルのスペイン行きについては,両評伝ともその動機等について多くを語っていない。カタロニアでの共和国政府による反対派弾圧については,シェルダンが詳しい。
ジョージ・オーウェル 『動物農場』のその後、 John Reed, “Snowball’s Chance”
01 Nov 2016
書誌
著者 John Reed
出版社 Roof Books (New York)
販売 Small Press Distribution
出版年 2002年
ハードカバー
判型 12.5cm×20.0cm
ページ数
Alexander Cockburnによる序文が5ページ
著者による本文が125ページ
(なお、その後2012年にMelville Houseからペーパーバック(再版)が出版されており、これがそのままkindle版として発売されている。ペーパーバック版及びkindle版には、James Sherryによる後書きが付されているが、未見である。)
著者について
著者ジョン・リードは、1969年、ニューヨーク市生まれ。両親は共に芸術家である。コロンビア大学で文芸創作に関する修士号MFA(Master of Fine Arts)を取得した。本作品のほか、”A Still Small Voice”(2001年。南北戦争をはさんでケンタッキー州の小さな町に生きた女性を主人公とする歴史小説)等の小説や詩を発表している。自らが生まれ育ったニューヨーク市マンハッタン区に住み、The New School大学で教えている。
ちなみに、著者は、ロシア十月革命のルポルタージュである”Ten Days That Shook the World” (邦訳『世界を震撼させた十日間』又は『世界をゆるがした十日間』)の著者と同姓同名であるが、偶然なのか、あるいは、意図して筆名として選んだものなのかは不明である。
なお、序文の筆者アレクサンダー・コックバーンは1941年生まれ、2012年死亡。アイルランド系アメリカ人、政治ジャーナリストであり、マルクス主義者、社会主義者を自称し、晩年は無政府主義者を名乗った。民主党やニューヨークタイムズのリベラリズムをも攻撃する左翼的言論によって著名である。
(以上の記述は、Wikipedia、本書カバーの記載及び著者のホームページによる。)
本作品の概要
本作品はジョージ・オーウェルの”Animal Farm”(邦訳『動物農場』角川文庫ほか)の続編の形をとっている。本書のカバーによれば、著者は、アルカイダによる2001年9月11日ニューヨーク世界貿易センタービルに対する民間航空機を利用した攻撃後3週間のうちにグラウンド・ゼロの近くローワー・マンハッタンにおいて本書を書き上げたという(ペーパーバック版の宣伝では、攻撃後間もなく14日間のうちに書き上げたことになっている。実際の執筆期間について述べるものであろう)。
なお、オーウェルの『動物農場』は1944年2月に完成したが、その風刺が余りにも辛辣であるため、出版元が見つからず、翌年8月にようやく出版された(上記角川文庫の年譜による)。
『動物農場』は、豚、羊、山羊、馬、犬、ネズミ、カラス等の動物が登場する寓話の形で、ロシア十月革命後のソビエト社会主義共和国連邦(以下「ソビエト」という)が、革命の掲げた崇高な理想にもかかわらず、共産党官僚という新たな特権階級による欺瞞的で暴力的な独裁を生み出したことを鋭く風刺するものである。
本作品の理解に資するため『動物農場』のあらすじを示せば、以下のとおりである。ジョーンズ氏の経営する荘園農場の老豚メージャー爺さんは、死を前にして、人間の支配からの動物の解放を訴えた。農場の動物たちは、ナポレオンやスノーボールらの豚を指導者として、老メージャーの思想を「動物主義」にまとめ上げ、ジョーンズに対する反乱を成功させ、農場を支配するに至る。動物たちは人間による奪還の試みも斥け、「いやしくも二本の脚で歩くものは、すべて敵である」「いやしくも四本の脚で歩くもの、もしくは翼をもっているものは、すべて味方である」「およそ動物たるものは、衣服を身につけないこと」「およそ動物たるものは、ベッドで眠らないこと」「およそ動物たるものは、酒を飲まないこと」「およそ動物たるものは、他の動物を殺害しないこと」「すべての動物は平等である」の七戒の下に、新たに命名された「動物農場」で共同して働くこととなった。しかし、理想に燃え艱難辛苦を耐えて農場建設に励む動物たちをよそに、農場の管理に当たる豚たちは、急速に堕落し、ベッドで眠り、酒を飲み、しかも、その支配を確立するために、直接的な民主制の基礎ともいうべき日曜日の「ミーティング」を形骸化した後、廃止し、また、子犬を親から引き離して育て、自分たちの言うがままになる暴力的な弾圧装置として利用するようになった。そして、遂には、二本脚で歩き、鞭を持ち、衣服を身につけて、周辺の農場の人間たちと交渉し、宴会すら開くに至るのである。その一方、豚たちは、多くの動物たちが愚かであることをよいことに、配給の減少をごまかして、あたかも変わりがないかのように装い、また、上記の七戒を巧妙に書き換えていった。いわく「およそ動物たるものは、過度に酒を飲まないこと」「四本脚はよい、二本脚はもっとよい」そして、結局七戒のうち次の一つだけが残った。「すべての動物は平等である。しかし、ある動物は、ほかのものよりももっと平等である」最後に、動物農場は「荘園農場」に名を改められる。
この堕落した豚たちの筆頭は、スターリンに擬せられたナポレオンである。他方、人間たちによる奪還の試みを挫折させた軍事作戦の英雄であり、ソビエトにおける急進的な工業化路線を思い起こさせる風車建設計画の推進者である雄弁家スノーボールは、それが擬せられたトロツキーと同じく、ナポレオンによって早々と追放されてしまう。ナポレオンはスノーボールの功績を貶め、動物たちの苦難をスノーボールの陰謀による妨害活動のせいにし、反対者をスノーボールの同調者として殺害する。
本作品は、ナポレオンの死後、荘園農場へのスノーボールの帰還に始まり、再度名を改められた動物農場のその指導の下における繁栄、すなわち、その象徴ともいうべき先進的な発電施設ツイン・ミルの建設、これによる生活の向上、大観覧車の建設を伴うアニマル・フェアーの開催、そして、その繁栄の絶頂における森林地帯の動物たちの動物農場に対する自殺攻撃を描き出すものである。
なお、本作品の表題は、主人公スノーボールのチャンスとも読めるが、”snowball’s chance”(“snowball’s chance in hell”ともいう)には、無に等しい可能性(望み)、あるいは、可能性がないこと、という意味があり(地獄の炎の前に雪玉はすぐに溶けてしまうことに発するものという)、これら両義を込めたものであろう。邦題は「スノーボールの望み」とすべきか。
主な登場動物
[スノーボール(豚)]
動物農場のかつての指導者であり、ナポレオンにより追放された。本作品の冒頭、農場に帰還し、その指導に当たるが、表だった公職には就かない。また、そのナポレオンによる追放後の経歴や帰還後の動物農場における私生活等は遂に明らかにされない。
[ミニマス(豚)]
ナポレオンの死後、その地位を継いだ。オーウェル作の動物農場においてナポレオンを讃える詩を書いた詩人として登場している。文学的な気質を持ち、スノーボールの帰還を斥けるのはいとも容易なことであったにもかかわらず、そうすることなく、これを受け入れる。その後、スノーボールと対立し、訴訟提起による周辺農場の併合や森林地帯からの移民の受入れに反対するが、敗れる。最後にクーデター的なスノーボール殺害を企図するが、自らに忠実なはずの親衛犬の指導者ブルータスらの裏切りにより失敗し、「ブルータスよ。おまえもか」の言葉を残して死ぬ。
[ピンキー(豚)]
ミニマスの次の世代の指導者候補であり、ミニマスの死後、その地位を継ぐ。
[トーマス(山羊)]
スノーボールが帰還に当たって連れてきた学者。ツイン・タワー建設等における技術的指導者となる。また、他の農場を経営する人間たちに対抗するため、ケロシン爆弾を開発した。この爆弾は、森林地帯のビーバーたちと動物農場が同盟を結んだ後、ビーバーたちに提供された。
[ベンジャミン(ロバ)]
ナポレオン時代を知る老いた知恵者。オーウェル作にも登場する。その記憶力のため、過去の出来事や動物たちについて尋ねられることしばしばであるが、気むずかしく、ほとんどの場合答えない。ただ、数学に優れた雌ロバのエメラルドとその子には優しく、最後の自殺攻撃の際は自らの命を犠牲にしてエメラルドらを守った。
[モーゼス(カラス)]
オーウェル作に、楽園「氷砂糖山」の存在を信じ、これを吹聴して回るカラスとして登場する。豚たちは、この「宗教指導者」にも擬せられるカラスが、全く働かず、農場の内外を行き来しているのにもかかわらず、これを受け入れて、動物たちがこの楽園を信じるのにまかせていた。本作品では、モーゼスの教えが森林地帯のビーバーその他の動物に浸透し、その自殺攻撃の精神的な支柱になるに至っている。
[ディソ(ビーバー)]
森林地帯(ウッドランド)のビーバーたちの指導者。ビーバーたちの作るダムは、水利の妨げとして動物農場を含む周辺農場によって度々爆破された。また、森林地帯の動物たちは人間たちによる狩猟の対象となっていた。ディソはモーゼスの影響を受け、ビーバーたちの偉大な過去を取り戻すために、他の動物たちを指導し、これら農場と闘う。そのため、ダムを爆破しはするが、狩猟は行わない動物農場とまず同盟関係を結び、ケロシン爆弾の提供等の支援を受けて力をつける。アニマル・フェアーに怒り、自殺攻撃を組織する。
[フィルモント(犬)]
ピンチフィールド農場主の飼い犬であったが、フォックスウッド農場主ピルキントンの飼い犬サンドラ‐マージョリーに恋し、子をなしたことにより、フレデリックにひどく打たれ、瀕死の状態に陥る。幸いにもトーマスらに助けられて、動物農場で働くことになる。しかし、その後、サンドラ・マージョリーや子どものために農場を裏切ってしまう。
物語 (発端部分)
1 スノーボールの帰還
オーウェル作に登場する動物農場改め荘園牧場では、反乱以来の古い世代が次々と死んでいった。ナポレオンも死に、黒のコートに身を包んで二本脚で立ち、パイプをくわえて地平線を見つめる青銅像が、かつては老メージャーの頭蓋骨が祭られていた場所に建てられた。その背後の納屋の壁には、今や唯一の戒である「ほとんどの動物は平等的である」が白いペンキで書かれている。ナポレオンの後を継いだのは、ナポレオンを讃える詩を書いた以外にほとんど功績らしい功績がないミニマスであった。その次の指導者候補にはピンキーが指名された。
そんなある5月の夜、スノーボールが衣服を身につけ、二本脚で立って歩き、農場に帰還する。守衛の犬たちが騒ぎ、動物たちが何事かと集まると、スノーボールは上半身の衣服を脱いで、他の豚とは違い筋肉で引き締まった胸を見せた上、「よりよい方法」をもたらすためにやってきた、これまで村で危険な目に遭いながら智恵を求め、遂にそれを得たと演説し、一緒に連れてきた山羊トーマスを紹介する。
ミニマスが親衛犬を引き連れて駆けつけ、そもそもスノーボール本人であるのかどうか、スノーボールであるとしても、悪名高きスノーボールが本当は悪くなかったという言葉を信じることができるのか、疑問を提起する。しかし、スノーボールは雌牛のマチルダに古い豚小屋に自分たちの藁の寝床を作るように頼み、その場所以外では寝ないと述べて、動物たちの心をつかんでしまう。
ミニマスは犬に命じてスノーボールを追い払うことが十分可能であったにもかかわらず、その機を逸した上、自らもスノーボールの言葉に思わず感動し、彼を受け入れることを宣言してしまう。
2 スノーボールの改革
スノーボールは、ミニマスを表にたてつつ、農場を指導し、日曜日のミーティングを復活させるととともに、指導者の地位をプライズ・ピッグと名付け、その選挙を実施する。荘園農場は元の動物農場に名を改め、各種動物の共同を象徴する旗が制定される。選挙はもちろん実質的なものではなく、ミニマスが当然のことのように選ばれるが、これらの改革は動物たちの心を高揚させた。
また、スノーボールはナポレオンの銅像を取り払うとともに、新しい戒を導入した。納屋の壁から幕が引かれ、「すべての動物は平等なものとして生まれる。何になるかは自分次第である」との言葉が現れた。さらに、そこには、それまで書かれていたナポレオンを讃える言葉の代わりに、スノーボールによる「寝床や小屋に不満があるかもしれない。食事に一杯蠅がたかって、うんざりするかもしれない。しかし、問うてはならない、『あの飼葉桶がなぜ自分のものよりよいのか』と。彼らは真に懸命に働いたのだ。我らはすべてパイを好むのだ」との頌が書かれていた。
さらに、スノーボールは村でトーマスの指導の下に学んだ「経済」に関する知識を適用し、農場の再活性化のための計画を立て、二つの風車による発電所(ツイン・ミル)の建設を提案する。トーマスは計画を説明し、これによって冷暖房、温冷水の供給、農作業の自動化が可能になると約束した。
3 森林地帯のビーバーたち
森林地帯のビーバーたちは、ビーバーダムの爆破によって、動物農場を含む農場全体に対する怒りを募らせていた。一方、他の動物たちも罠による被害に耐えかねていた。これらの動物たちは強力な指導者を求めており、ビーバーたちの性格には問題があったが、やむを得ずビーバーたちに従うほかなかった。ディソはそのビーバーたちの指導者である。
カラスのモーゼスは森林地帯では神のようにあがめられており、ビーバーたちに遠い昔のビーバー時代の栄光や古代ビーバー教典を思い起こさせた。
その教典はレモン・メランジェ・パイを食べふけること、より一般的には、パイを食べふけることを禁止していたのである。動物農場の教えである「我らはすべてパイを好む」はこれに真っ向からはむかうものだった。ディソは古代ビーバー教典の確固たる信者であり、これに忠実に従っていた。
ディソは自ら情報を収集するとともに、モーゼスや、ネズミなどの他の動物から得られる情報を総合して、当面は、豚の農場すなわち動物農場と同盟し、より危険な人間たちに対抗するしかないと考えた。動物農場はトーマスの力もあって、ケロシン爆弾により罠を破壊するという革命的な軍事技術を発展させていた。ディソの指導の下で森林地帯の動物たちは動物農場と協力し、人間によるフォックスウッド及びピンチフィールド農場に対してこのケロシン爆弾のほか様々な手段を用いて隠然たる軍事闘争を展開した。
以下の物語の展開について興味のある方は、直接本書を読まれたい。
所感
本作品は、アメリカを中心とする資本主義の発展と9.11をオーウェルの作品の続編の形で寓話化したものである。
トロツキーの影響を受けたコミュニストの中には、James Burnham(1905-1987、The Managerial Revolutionの著者)のように、スターリン独裁とソビエト社会の惨状に深く幻滅する一方、資本主義の発展とその改良の可能性を認識し、冷戦におけるアメリカの役割を強調した者がいる。スノーボールがいかにして反乱の英雄から、「すべての動物は平等なものとして生まれる。何になるかは自分次第である」との教えを垂れる指導者に転換したのかは本作品では明らかでないが、同じような経緯をたどったと仮定することができよう。
現実のトロツキーは亡命先のメキシコで暗殺されたのであるが、この寓話の生けるトロツキーは、反乱の地に戻り、植民地問題や階層間の格差を彷彿とさせる、動物農場における社会問題を抱えつつも、ともかくも繁栄をもたらした。
そして、モーゼスの教えに心酔し、動物農場との一時的同盟により軍事技術を発展させたビーバーたちに率いられる森林地帯の動物たちが無差別な殺戮によりその繁栄に破局をもたらす。
寓話は語り得ないことを語るものであろう。すなわち、私たちを含め、人は信じたいことを信じて生きているのであるが、寓話は信じたくない真実に目を向けさせるのである。
amazon.comのある書評が示唆するように、この作品は、資本主義の発展とその漸進的改良の可能性に希望を見いだす者にも、あるいは、その転覆を目指す者にも、等しく不都合な真実を突きつけるものかもしれない。
なお、コックバーンの序文は、コックバーンが学校時代、社会主義を擁護する度に、級友からオーウェルの動物農場の一節(平等に関する書き換えられたスローガン)を指摘されてあざけられたという思い出を述べて、オーウェル嫌いを宣言した上、オーウェルがMI6(イギリス対外情報部)に対し周辺のコミュニスト及びその同調者の名前を提供していたと断言し、オーウェルを非難するものである。その根拠としていくつかの文献が挙げられているが、この序文の内容が正しいかどうかは、簡単には判断できない。いずれにしても、この序文の内容は名誉毀損にもなりかねないものである。
一方、この序文は本作品の内容にはほとんど触れておらず、オーウェルの動物農場がコミュニズムを風刺したものとすれば、本作品はその反対側を風刺したものであると述べるのみである。俗に言えば、コミュニズムに共感を感じる者が本作品によって溜飲を下げているとも理解されかねない内容である。しかし、本作品の内容はそのような単純なものではないであろう。
オーウェルの作品は出版元を見つけるのに苦労した。本作品はどうだったか。
ペーパーバック版の宣伝及びwikipedia.com並びに著者に対するインタビュー記事によれば、本作品はChristopher Hitchens(1949-2011。イギリス・アメリカの両国籍を持つ著名な作家。左翼及び無神論を支持した。コックバーンの序文中で、そのオーウェル擁護の立場が批判されている)による激しい非難を招き、また危ないところでオーウェル遺産管理人からの訴訟を回避したという。
訴訟に関する詳細な経緯は不明であるが、本作品の内容から見て、オーウェル作品の続編の形をとる寓話であることによってオーウェル遺族の『動物農場』についての著作権を侵害するとは言えないであろう。むしろ、コックバーンの序文が遺族の怒りを招いたのではないかと思われる。
しかし、本作品自体は、特定の政治的立場のプロパガンダとして読むべきものではなかろう。著者自身の意図がどこにあるかは必ずしも明らかではないが、客観的に内容を見た場合、人間(この物語において動物の姿をまとい、かつ、現実に動物の一員である人間)の真実を求める著者の文学的資質のおかげで、そのようなプロパガンダに終わることはなかった考えられる(もちろん、信じたいことを信じる、人々の避けがたい傾向は、何事についても、その信条に従った色を見させるのであるが)。