ハンナ・アーレント 革命について Hannah Arendt, On Revolution

目次

ハンナ・アーレント 革命について

..Date: 2014.05.25;140508,10、ハンナ・アレント(本書の表記はこうなっている。ハンナ・アーレントが普通だと思うが)、志水速雄訳;革命について(1963年);

第5章までに目を通すが、極めて混乱しているとの印象を受ける。冒頭には、政府からの自由(リバティ)と政府へ参加しうる自由(フリーダム)の区別、生命過程における幸福の追求すなわち貧窮からの解放と政治過程への参加すなわち公的幸福の追求の区別が延々と論じられる。そして、「革命」とは、本来フリーダムの創設と、それを通じての公的領域における公的幸福の確保を目的とすべきものであるが、フランス革命やロシア革命は、貧窮からの解放それ自体を目的として、しかも、自ら専制に陥り、破滅したと論じられている。論述は、警句的表現の積み重ねによるところが多く、しかも、繰り返しが多い。

これらの革命に対比して、アメリカ革命が論じられ、それは、ヨーロッパ的貧窮(アーレントによれば、それは、旧体制の転覆によって解決されるものではなく、技術的手段によって解決されるべきものである。おそらく、技術的手段の発展による生産力すなわち経済の発展によるべきものであるとの謂いであろう)がない状況の下で、すなわち比較的豊かな社会において、フリーダムの創設を達成したという。権力のみが権力を制限するとのモンテスキューの理論が実際に適用され、13州の憲法が、次いで連邦憲法が制定された。これに対して、フランス革命では、現支配者の一種の公的幸福(支配する「多数者」の)による貧窮からの解放の追求が徹底した永続革命を余儀なくさせ、破滅した。ロシア革命も同様である。

もっとも、p.99には、レーニンがロシア革命の核心を「電化・プラス・ソビエト」と述べたとき、そこには、必然性(このような必然性の概念は、フランス革命後、その評価とともに発展し、マルクスによって定式化され、スターリン粛清の対象となった革命家の意識をすら拘束したー粛清は必然的であり、抵抗しがたく、それこそがソビエト国家の防衛と発展に寄与するとの意識をすら生んだということであろう。この点に言及した部分もあったが、今それを特定できない)に屈服しない、正確な認識があり(電化すなわち技術による貧窮からの解放とソビエトすなわち政治参加による公的幸福の追求)、必然性に屈伏しないアーレントの言う自由の創設の可能性が見られるという。しかし、それもレーニン自身による党の独裁体制の推進によってついえた。

結局、これらの論述は、アーレントが問題の核心を明確に定義できないまま、その周辺をぐるぐると回っているために混乱しているのである。核心には、おそらく、一定の経済の発展(それは政治によって強制されるものではない)がもたらすべき、多元主義と多元主義を政治過程において保障するための立憲主義(少数者の保護)の下における民衆の政治参加という概念があり、これをアメリカ革命が実現したのに対し、フランス革命は、貧窮からの解放という政治だけでは決して満たし得ない目的に終始つき動かされ破滅したというのがその主張の骨子なのであろう。

しかし、アメリカ憲法の父たちやロベスピエールからの引用、偽善や同情、共感、無私に関する延々とした論述(混乱した印象を受ける)等も、味わうべき機知に富む警句的論述というべきであろうか。いずれにしても、1960年代において、アメリカ革命を評価し、マルクスの必然性への屈伏と自由の創設の軽視を指摘したことは、まさしく先見的である。おそらく、ブリュッヒャーの議論の影響も相当にあるのであろう。

以下、注目点:166、167:キーとなる部分か。自由の創設と必然性の対比。169:「政治的手段によって人類を貧困から解放しようとすることの結末は、人びとが本当に自由でありうる唯一の領域、すなわち政治的領域に、必然性[貧窮]が侵入したことであった。」178:「革命はその最初の段階では驚くほど簡単に成功するように見えるものである。その理由は、革命を遂行する人びとが、明らかに崩壊している旧制度の権力を最初はただ拾いあげるだけだからである。つまり、革命は政治的権威の失墜の原因ではなくて、その結果である。」

最終章、第6章を読む。最終章では、ヨーロッパ大陸的「政党制」(権力をめぐって敵味方として闘う政治集団)と、イギリス・アメリカ的な対抗勢力を承認する二政党制の違いが論じられ、フランス、ロシア両革命ともに、人民の間から自然発生的に生まれた評議会を大陸的政党が支配して、その意義を失わせ、自由の創設であるべき革命を挫折させ、失敗させたことが指摘されている。大陸的政党制は、むしろ僭主制に近いともいう。菅直人の議会制民主主義の定義、すなわち選挙において勝利を占めた政党の期限付独裁という考え方もこれに近い。菅直人の「革命」は、まさにフランス・ロシア革命の轍を踏むものであろう。

なお、これらの議論でも、経済は資源の豊かさと統治の「温和」さに依存するものとされ、経済と革命の関係は断ち切られている(354)。しかし、経済が自由を可能にするのであり、その自由がまた新たな経済を可能にするのではなかろうか。アーレントを善解すれば、経済の発展の結果が政治的変革であって、その逆ではないということであろうか。

評議会については、フランス革命、ロシア革命、1956年のハンガリー革命、第1次大戦後のドイツ革命、いずれにおいても、自然発生的な、大陸的「政党」の指導によるのではない、評議会の発生があったといい、これこそが自由な共和国の萌芽であったと指摘する(414)。そこでは、文筆家を始めとする政党的知識人あるいは職業的革命家(これらの革命的知識人たちは、革命を起こすことはできず、既存の政治体制の崩壊を利用するにすぎない。413)でない人々が自由の創設に参加することに意義を見いだし、連邦的連合体をも作り上げた。これらの人々は、国家・社会の管理には熟達しなかったが、共和国の制度を構想し、実現することができた(貧困の解決、「社会問題」の解決ではなく。このような評議会の意義を論じる過程でローザ・ルクセンブルクも引用されている)。これがアーレントの主張であり、これら評議会は、アメリカ革命における郡区・タウンシップにおける民衆の政治参加とその連合に比すべきものであるという。この関連において、ジェファーソンが区(ward)における政治的意見形成を復活させることを主張していたこと(371)が指摘されている。

このようなアーレントの主張は、少数者の権利保護を伴う政治的多元主義を暗黙の前提とするものではなかろうか。アーレントが希望を見いだす(いささか楽観的すぎるほど)評議会とても、階級・階層の対立を免れない。ロシア革命時の労働者と農民の利害の対立は明らかである。それにもかかわらず「自由の創設」が可能であるとすれば、それは、代表民主制を少数者の権利保護と結びつけることにより、多様な利害の安定的調整が可能であり、それこそが今日の政治的制度として最良であるという(多元主義の定義については要検討)政治的多元主義(以上の理解は、Elyに基づく)を前提とするものではないか。

なお、アーレントは、このような少数者保護を明言しないが、大衆の専制(世論の支配)を防止するために、アメリカ連邦憲法は、独立した司法とともに、「上院」を設けたことを強調している(365,366)。民主制における貴族的要素を上院に認めるのである(トックヴィル参照)。

訳者のあとがきは的を射たものであるが、川崎修の解説はいささか的外れである。ポーランドの連帯の運動について論じ、それが政治への直接の介入を避け、市民社会の自律と政治からの分離を目指したことを挙げ、アーレントの理論に反するものであるという。これは、共産党独裁下における弾圧の中でどのような運動が可能であり、最良であったか、当面の目標と最終目標をどのように結びつけることが妥当であったかという視点を全く欠いた、文筆家的な批評にすぎない。

また、アーレントは、政治への参加について、利害を離れた生の意味を求める意欲の存在を前提としていると言い、そのような「ロマン主義的」「動機付け」が民衆一般に存在するのか疑問であるという。これは、誤読ではないのか。アーレントは、文筆家たちについては、このような趣旨のことを述べているかも知れないが、評議会に参加する民衆については、そのようなことは述べていないのである。彼らの利害と自由な共和国の創設は、対立するものではなかったと言うべきであろう。アーレントは、革命家たちの「無私」をむしろ批判しているのである。

目次