イギリス労働運動史 History of the Labor Movement in the United Kingdom

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イギリス労働運動史 History of the Labor Movement in the United Kingdom

労働運動の成長

 18世紀、イギリスは、ヨーロッパで最も進んだ国であり、世界に先駆けて「産業革命」を達成し、その後、機械制大工業を急速に発展させた。また、これと前後して、農業生産性を上げるための地主による農地の囲い込みが進み、多数の農民が農地を失った。さらに、穀物法の廃止による大陸農産物の輸入の増大によって、農業従事人口は、一層窮乏し、多くが都市に流入して賃金労働者となった。このような社会経済情勢の急激な変化の下で、労働者の極度の低賃金、長時間労働、年少者の過酷な労働、劣悪な住環境等が差し迫って解決を要する「社会問題」として意識されるようになった。


 1789年に始まるフランス革命とその後のナポレオン戦争は、イギリスにも多大な負担を強いた。一方、自由・平等及び人民主権の理想を掲げたアメリカの独立戦争とこれに続くフランス革命は、人々の思想に大きな影響を与えた。こうした中で、輝かしく、また苦難に満ちたイギリス労働運動が始まり、チャーティスト運動の高揚とその後の一時的な後退等を経つつ、労働組合の結成と争議の合法化、工場法等による労働時間、年少者の労働の制限、最低賃金制や工場監督官の設置等の成果を挙げるとともに、選挙権者の範囲を順次拡大させ、遂に普通選挙を実現するに至った。その歴史を振り返ることは、アメリカ公民権運動の歴史と並んで、我々が生きる今日の世界を理解する上でとりわけ重要であろう。以下、主としてG.D.H. コール、林健太郎ほか訳『イギリス労働運動史』(全3巻、岩波書店、1952-57年)によって、これを見ることにしたい。


 過酷な労働条件に対抗する運動は、まず、必ずしも十分に組織されないストライキや機械の打ち壊し(ラダイト運動)として始まった。1810年にはランカシャ地方で木綿織物工と羊毛織物工の大ストライキが起こり、一時的にせよ、賃金の引き上げを勝ち取った。1812年には、スコットランドで織物工のゼネラル・ストライキが発生している。
 その後、賃金の引上げや労働時間の短縮を目標に掲げたストライキは、紡績工、機械工、坑夫、鉄道員、船員等、各種産業の労働者に広がり、特に好況期においては使用者の妥協を引き出して一定の成果を挙げた。これらのストライキに対して、使用者は、ロックアウトとストライキ破りの導入で対抗することも多く、ストライキ資金の枯渇による労働者の敗北をもたらした。また、指導者に対しては、労働者の組織を禁止する結社禁止法(1799年成立)や労働契約不履行の罪によって刑事罰が科されることが少なくなかった。
 このような状況の下で、労働運動は、組織の拡大と連合、弁護士の助力による法的な対応、当時の自由党との政治的連携による労働者保護・労働組合立法の推進、普通選挙権獲得のための運動と選挙権拡大に伴う議会への進出等によって対抗し、1871年には労働組合の結成を法的に承認する労働組合法が、1875年には労働契約不履行に対する刑事罰の廃止や平和的なピケッティングの合法化を内容とする雇用主労働者法等が成立した。労働者を中心とする政治的な組織としては、1881年に民主連盟(後に社会民主連盟)が、1893年に独立労働党が、1900年に労働者代表委員会(1906年に労働党と改称)が結成され、議会に進出した。また、漸進的な社会改良を主張するフェビアン協会も、1884年に結成されている。

チャーティスト運動と第2インターナショナル


 1838年には、男子普通選挙権(女子への拡大も議論されたが、できる限り幅広い支持を集めるために除外されたという。時代の制約というべきであろう)、秘密投票、定期的な選挙人数の調査による平等な選挙権の実現、議員への歳費支給等を掲げる人民憲章(チャーター)が発表され、労働者と知識人が中心となって、「チャーティスト運動」を繰り広げたが、当時の議会の容れるところではなく、運動は1848年の大集会をもって事実上終わった。この運動は「失敗」であったと評価されることも少なくないが、後の成果の基礎を築いたものというべきであろう。
 労働運動は、ドイツやフランスにもその工業化の進展とともに広がったが、例えばドイツでは、社会主義思想による上からの組織化の傾向を帯びていた上、1878年に制定されて1890年まで続いた社会主義者鎮圧法により当初から弾圧にさらされ、むしろ、ビスマルク首相の主導によって、社会保険制度等が整備されるに至った。
 また、フランス革命百周年の1889年には、社会主義者の国際組織、第2インターナショナルが発足している。同インターナショナルは、アナーキストは排除されるに至ったものの、フェビアン協会等をも含む幅広い組織であり、その第1回大会では、8時間労働制、普通選挙権、メーデーを国際労働運動のための休日とすることなどの要求が決議されている。しかし、次第に原理主義的なドイツ社会民主党の影響力が強まり、運動の幅は狭まった。

世界大戦と労働運動


 20世紀に入り、イギリスは二つの大戦争を戦わなければならなかった。第1次世界大戦は、ドイツの急速な発展と軍備拡大の中で、当時ヨーロッパで最も遅れた反動的専制と考えられていたロシアと民主主義国イギリス・フランスが同盟し、専制的であり、かつ、経済的に強力なドイツと戦うという複雑な国際情勢の下で、各国の労働者政党が一致して戦争に対抗することを不可能にした。その中で、最も遅れたロシアにおいて、ボリシェヴィキ政権が生まれ、敗戦国ドイツにおいては、ワイマール共和制が、ロシアに続く革命を目指す運動と、国家社会主義を目指すファシズムの激しい運動の中で不安定を極めた。 
 イギリス労働者の大勢は戦争を支持し、戦後は、労働時間短縮等を要求する運動の高まりの後、1924年、マクドナルド第1次労働党政権が成立し、短命には終わったものの、労働条件改善の成果を挙げた。
 労働運動は、その後、大恐慌とファシズムの台頭、それに引き続く戦争の下で、困難な状況に置かれたが、第2次世界大戦の終結とほぼ時期を同じくして、労働党政権が成立し、同政権は、包括的社会保険等の社会保障の充実に努めた。
 こうした中で、1919年、国際労働機関(ILO)が、政府・使用者・労働者の各代表によって構成される独特の国際機関として発足した。同年10月の第1回総会は、労働時間、失業、母性保護、女性の夜間労働、就労最低年齢及び年少者の夜間労働に関する六つの国際労働条約を採択している。イギリス労働運動がその苦難の中で達成してきたものは、遂に国際的な規範として結実するに至った。

イギリス労働運動の特徴


 イギリス労働運動の歴史を見て注目されるのは、組織や運動の粘り強さと創意、中産階級知識人等との巧みな連携、経済闘争と政治進出の結合、資本主義の発展と労働法制の整備の並行的進展、非熟練労働者の増大による限界の5点であろう。最初の3点について述べれば、労働者は、不況期の労働条件切り下げに抵抗し、また、好況の到来に応じて、その改善を図り、失敗を重ねながらも、使用者や保守党政権を含む時の政府の妥協を引き出し、組織を拡大した。そして、中産階級、それを代表する自由党等とも連携して議会進出を進め、立法による成果の獲得を追求した。このような運動には、ロバート・オーウェン、ウェッブ夫妻、バーナード・ショー、ウィリアム・モリス、マルクス、エンゲルスら著名な知識人も名を連ねている。イギリス労働運動は、これらの知識人を含む多様な人々を巧みに組織し、その時々の情勢に応じて運動の具体的方法を見出し、それを実践した。これらの点において、それは、例えばドイツの労働運動とは異なるものであった。そして、その成果は国際的にも大きな影響を与えた。
 第4点については、社会政策学における大河内一男氏のいわゆる生産力説が想起される(『社会政策(総論)増訂版』(有斐閣、1980年)ほか)。同氏は、工場法等の労働立法の歴史をたどり、資本制生産における重要な生産要素である労働力が、個別の資本による過酷な使用によって損なわれるのを防ぐために、これに対抗して労働力を保全するために、総資本の立場から労働者保護立法が必要とされるに至ると説いた。労働力の保全の内容には、生産性や創造性の維持と向上も含まれる。そして、これらの立法は、具体的には、労働者の運動と資本の妥協を通じて実現したのである。
 しかし、イギリス労働運動も、非熟練労働者の増大とともに、熟練労働者中心の運動が限界に達し、一方で、非熟練労働者の組織化を十分になし得なかった。そして、それを補うように、社会保障の充実が進んだ。今日の我が国の労働運動は、非熟練労働者だけでなく、非正規雇用労働者の組織化の問題を抱えている。生産形態・雇用形態の多様化は、今後ともますます進むものと思われる。先進諸国における、労働者保護立法を中心とする、いわゆる「社会政策」から、より幅広い「社会保障」への発展は、この意味において必然的な現象なのであろう。そして、各国の労働運動は、このような状況の下で、経済要求と政治をどのように連携させていくのか、労働者各層の利益及びその他の諸階層の利益をどのように調和的に実現していくのかを問われているといえよう。イギリスを含むヨーロッパの社会民主主義のたどった途は、この点に関して示唆を与えるもののように思われる。

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