ホッブズを読んで Hobbes

目次

ホッブズ 『市民論』(De Cive)を読んで

ホッブズの『市民論』をゆっくりと読み進めている。併行してアリストテレス『政治学』も読んでいる。両者ともに様々な示唆を含む、まさに「古典」である。以下には、断片的なものとなるが、その時どきの所感を記すこととする。

生産の組織形態、統治の組織形態

マルクスの唯物史観及び資本主義論において決定的に欠けているのは、シモーヌ・ヴェイユが指摘する、生産の人的組織とそこにおける指揮命令、これに基づく生産における支配と被支配の分析である。

生産手段は、生産の人的組織によって分業的・組織的労働の手段となり、生産物が生産される。一定の人的組織を含む、このような「生産組織形態」あるいは「生産労働組織形態」(何らかの用語が必要である。今後検討を要する)が変化しない状態で、所有の形式を変更しても、実質的な所有形態と「生産様式」は変革されない。所有形態は生産労働組織形態における支配・被支配関係に規定され、両者は表裏一体をなす。したがって、このような所有の形式の変更は、「所有」の「名」の変更による、ある集団から別のある集団への支配と所有の移転にすぎない。「社会主義革命」によって生じたことは、まさにこれであった。

(この見地から見ると、「働き方改革」や「リモート・ワーク」は、資本により主導された、生産労働組織形態の変革の萌芽と理解することができる。しかし、労働者はこれを主導することができなかった。)

このような欠陥は、政治の分析についても現れる。

共同体の統治活動がどのような人的組織によってどのような手段を用いて行われているのか、それがどのような条件の下で行われ、その条件はどのような制約をもたらし、どのような発展の契機を内包しているのか、これらが明らかにされるべきであろう。「民主主義」と「専制」(2024年現在流行のメディア・論文用語によれば「権威主義」)を抽象的に区別し、具体的な統治に当てはめて、それで足りるということにはならない。

統治の目的、政策の決定過程、その執行過程、自由で合理的な議論とこれによる決定の保障、権力の濫用と腐敗の防止、統治の実務(actus)を行う集団の構成とその統制、統治のための優越的意思の法による対象化、これらに関する現状と未来が論じなければならない。

ホッブズの市民論における問題意識は、この点にある。アリストテレスにおいても、優越的意思の法による対象化が論じられている。このような過去の蓄積を無視して政治を語ることはできない。

ホッブズ リヴァイアサン 第1部

2025.06.10; ホッブズ; リヴァイアサン、水田洋訳、岩波文庫;

第1部を読む。

人の欲求、すなわち生存と繁殖、力の獲得とこれによる他の支配、これらから諸情念を導出し、行為を導く、意志は意識過程におけるある行為の決定と同義と把握されている。「自由な意志」なるものは、それ自体が矛盾した言辞であり、あり得ないとの記述もある。

人は、万人の万人に対する戦い、すなわち戦争状態から平和を求め、Powerすなわち権力(その社会統制手段は恐怖である)を確立して、平和のうちに所有を他と分かち合い、契約が遵守される保障を得る。ホッブズのいう「自然法」は、例えば平和の希求など、このような権力と所有権の確立に至る過程における人々の間における「理性」の法であり、それは、「科学的に」探求されなければならない。(「自然状態」としての戦争状態において妥当する法が「自然法」なのではない。)

したがって、「自然法」とは、Lex Naturalisが意味するとおり、自然の法であり、人が権力による社会統制に至る、その自然史的過程を支配する自然法則と考えられる。ホッブズは、この導出の過程において、「欲求」「快」「便益」の追求にしばしば言及しており、権力の樹立へ至る動因は、ベンサムの効用原理(存在の法則として理解されたものとしての)と異ならないと思われる。ただし、ホッブズは、人の集団における分業と交換の不可欠性に明示的に言及しておらず、不満が残る。

ホッブズの社会契約論は、ある仮想的な契約を観念の上で想定するものではなく、人の集団の進化の過程の分析から導かれる、このような自然法則を示すものである。『市民論』にも現れる一種の理神論、すなわち創造主としての神を想定しつつ、人を含む自然には独自の法則が認められ、神の決定はその法則を通してのみなされるとの考え方がこれらの議論の根底にある。

以上のことは、256,257の「これらの理性の指示を(自然法の一部としてホッブズが論じ、道徳哲学の著作者たちが「諸情念の中庸性」として主張するものを)、人びとは法という名でよぶのがつねであるが、適切ではない。なぜなら、それらは、何がかれら自身の保存と防衛に役だつかについての、諸結論または諸定理であり、それに対して法とは、適切にいえば、権利によって他の人びとを支配するものの、ことばなのだからである。しかし、それでも、もしわれわれが、おなじ諸定理を、権利によってすべてのものを支配する神のことばのなかにのべられたものとして考察するならば、そのばあいには、それらは法とよばれるのが適切である。」に比較的明確に示されている。

なお、ホッブズは、これらの議論にあたり、概念を明確に定義して論理を順序立てて述べる必要があることを強調し、スアレスらスコラ哲学者を辛辣に批判している。

自由については、「外的障碍が存在しないこと」と定義され(216)、このような自由以外の自由について「自由な臣民」「自由な意志(Free-will)」を語ることは背理であるという(88)。自由な意志については、決定論を前提としてその背理性を指摘するものであろう。ホッブズの意志の定義は、「熟慮において、行為またはそれの回避に直接に附着する、最後の欲求または嫌悪は、われわれが意志Willとよぶもの、意志するという行為(能力ではなく)である。」というものである(111)。

以上は第1部を読んでの所感であるが、第2部に入ると、権力を設定する信約の規範論的解釈が論じられている。この規範論的解釈と、第1部の信約生成の必然性を論じた部分がどのように整合的に理解されるのか、この問題は、読み進んだ上で検討することとしたい。(2025.06.14記す)

ホッブズ リヴァイアサン 第2部

2025.06.25; ホッブズ; リヴァイアサン; 第2部を読む。

第1部については、前項記載のとおり、人の欲求と情念から出発し、人々が、万人の自由(ホッブズによれば、「自由」とは、外部から制限を受けないことと定義される)から生じる万人の万人に対する戦争状態から脱却することを求め、共同して政治権力を創出し、これに服従することを、人類の自然史的・論理的な発展過程の帰結として論じているものと理解した。

第2部は、人々の信約によって「設立」される国家(コモン・ウェルス)及び征服等によって外部から強制され、服従を余儀なくされる国家の2種別の生成を論じ、いずれについても自然法がその生成の原因をなすこと、このようにして成立した国家への「従順」が義務となること、国家は人民と同一であり、国家を担う自然人又は合議体は、この国家を「代表」するものであること、これらが論じられている。そして、その代表が君主であるものが君主制であり、少数の者の合議体であるものが「貴族制」であり、全人民の合議体であるものが「民主制」であるが、いずれにしても、これら各代表が人民自身の代表であることが指摘され、これによってこれら代表、すなわち「主権者」(Soveraignty。現代英語ではSovereignty)の命令には服従する義務があること、主権者の命令が市民法であり、人民を拘束することが論じられる。

自然法として論じられる、公正、正義、報恩及びこれらに基づく諸徳性は、自然状態においては「本来の法ではなくて、人々を平和と従順にむかわせる諸性質である」が、ひとたび国家が設立されると、それは主権者の命令である市民法の一部となる。

ホッブズは、人民、国家、主権者の同一性を論じ、国家への服従と「良心」の対立、従属的裁判官と主権者との関係、法の解釈が主権者によって最終的に決定されるべきこと、主権が分割できないことなどについて、この同一性の原理によって規範的・演繹的な議論を展開する。単独又は合議制の忠告者についての議論は、身分制議会を意識し、これが主権者に取って代わることができないことを指摘するものであろう。

犯罪と刑罰についても詳細な論述があり、罪刑法定主義が明確に主張されている。

ケルゼン『民主主義の本質と価値』における民主主義の定義は、治者と被治者の同一性であるが、その同一性は、立法による統治への人民の参加によって媒介されている。これに対し、ホッブズにおいては、国家設立時における「信約」によって同一性が成立し、統治への参加は必要とされていない。なお、その信約は人民の多数によって決定され得、少数者はこれに服従すべきことが論じられている(40)。

国家設立の目的は、人々の平和と幸福であり、主権者はこれへの奉仕を自然法によって義務付けられていることが詳細に論じられているが、その義務の履行がどのように担保されるのかについては明示の言及がない。もっとも、全体を通じて、上記同一性の原理は、長年の探求によって知られるものであること、人々が容易にその無知から反抗と内乱に走り、国家を崩壊させて、悲惨な自然状態を自ら招くことが指摘されている。

おそらくこの点の解決をも企図したものと思われるが、第31章「自然による王国について」に次の記述がある。すなわち、ホッブズは、神による自然的処罰を論じ、この世における人の行為は諸帰結の長い連鎖であって、「自分の愉快のためになにかをしようとするものは、それに結合するすべての苦痛をうけることをひきうけなければならないようになっている。そして、これらの苦痛は、善よりもおおくの害のはじまりである諸行為の、自然的処罰なのである。そこで、次のことが生じてくる。すなわち、不節制は病気によって、自然的に処罰され、性急さは機会喪失によって、不正義は敵の暴力によって、臆病は抑圧によって、王侯たちの怠惰な統治は反乱によって、反乱は殺戮によって、そうされる。というのは、処罰は諸法の破棄の帰結だということをみれば、自然的処罰は、自然の諸法の破棄の自然的帰結であるにちがいなく、したがって、それらの恣意的でなく自然的な結果として、それらにともなうのである。」と論じている(301,302)。

この章は、神の存在や神義論を詳細に論じるものであるが、その結論は明確でない。世界すなわち神、世界の永遠性といった議論を斥ける一方で、神の意志は「あらゆるものに作用するところの、力として理解されるべきである」と論じ(297,298)、「この神の自然の王国では、なにごとを知るにも、自然理性による以外の、すなわち自然科学の諸原理からする以外の道はないと想定される」と指摘する(298)。結局、世界の創造と運動の原因を「神」に帰する一方で、世界の運動法則については「自然科学」によって知る以外の道はないと主張しているもののように思われる。これは、ホッブズ自身が否定し、距離を置く「無神論」と実際の結論においてはほとんど異ならないものではないだろうか。あるいは、自然による王国を論じたのは、無神論の誹りを避けるとともに、「自然的処罰」によって主権者がその義務を強制されることを論じるためであったとも思われるのである。第2部の結論との要約が付されたホッブズの述懐(302 f)も、これを裏付けているように思われてならない。

以下、注目点を列記する。33: 可死の神としてのリヴァイアサン。34: 獲得/設立によるコモン・ウェルス、88: 自由と必然性の両立。いわゆる自由意志をめぐって。96: 憲法的自由論の萌芽。98: 革命権の消極的承認? (訳者注)。101: コモン・ウェルスの自然死。「内部的不一致による自然死の多くの種子」。52: 民主政治の定義。133: 陪審。138: 所有権。141: 主権者の自然法違反。158: 忠告の資格。161: コモン・ウェルスの必然的崩壊。164: 市民法の定義。法すなわちCivitasの命令。166: 自然法と市民法の関係。自然法すなわち自然状態における平和と従順に向かう諸性質。171: 法は告知されなければ効力がない。185: 陪審。201: 外部的行為のみが犯罪として処罰され得る。205: 罪刑法定主義。210: 犯罪の原因。214: 自然が「犯罪」へと強制する。217: 量刑において考慮すべき事情。218: 激情による犯罪。227: 刑罰の目的は抑止であり、単なる苦痛の賦課が目的ではない。237: 次章においてリヴァイアサンの衰退を論じること。249: 市民的権力(政治権力)と霊的権力(宗教権力)の両立不可能性。260: 反乱は市民法上の犯罪ではなく、敵対行為である。262: 国家創出が理性の法によるものであること。273: 植民。人口過剰による戦争。国家間の法は、神の法すなわち自然法である。293: 神は目的を持たない。297: 神の無限の力。294: 神すなわち世界ではない。世界の永遠性の否定。自然理性、自然諸法。301: 自然的処罰。

ホッブズ リヴァイアサン 第4部及びラテン語版付録

2025.07.03; ホッブズ; リヴァイアサン; 第4部第46、47章、総括と結論、ラテン語版付録「二ケア信仰箇条について」「異端について」を読む。

これらは、ホッブズ自身の哲学的思想や政治権力と宗教権力についての見解を知る上で重要である。

物体の属性が物体を離れて存在するとの見解を詳細に批判し(268 ff. アリストテレスらを批判し、「空虚な哲学のごまかしの芸当」とまで言う。270)、不死の霊魂の存在を否定する。内心の自由を擁護し、宗教は内心の問題であることを主張する(130、149)。宗教的権威が内心の自由を侵害し、自らの教義に反することを理由として処罰することは不当であり、公共の静穏が乱される場合にのみ、その有無を判断して処罰する権威を帯びた政治権力によって処罰され得るにとどまる(299)。この文脈で、地動説への迫害を含む教会権力による科学的所説への弾圧が取り上げられ(ガリレオは1633年、終身刑を言い渡された)、批判されている(134)。

二ケア信仰箇条及び異端に関しては、父と子と精霊の3位格が同じ神の属性であること、キリストは神の意志を人のことばによって人に伝えるために現れたことなどが説明された上、人の生命のほかに魂は存在しないこと(259 ff.)、何であれ物体の属性が独立して存在することはあり得ないこと(この点は繰り返し論じられている。114 ff.など。これは、霊的な神を否定することにつながり、自然すなわち神であるとの見解に近いものと思われる。275に「物体」に関する詳論がある)、神は創造神であり、永遠であることなどが主張されている(244。なお、神の全能性について263。その意味については更に検討を要する)。これらの見解は、アリストテレス哲学に影響された異端として禁止された「世界の永遠性」を主張する見解(ホッブズ自身は、244においてアリストテレスのこの見解を批判する)やスピノザの自然すなわち神であるとの見解とほとんど異ならないと思われる。いずれにせよ、以上の点を論じる部分は、更に深く研究する必要がある。

異端については、haeresis がαἵρεσις (<αἱρέω) に由来し、本来ある学派の教条を意味すること、これに対し、καθολικός に由来するcatholicは一般的・総体的なものを示すこと、したがって、異端は時代と状況によって相対的であって、キリスト教も異教世界やユダヤ世界では異端であったことが論じられた上、福音書によれば、宗教的権威は本来処罰の権力を持たないこと、それがなし得るのは、信仰の共同体からの排除にすぎないことが論じられる(306)。

一方、政治権力による処罰は、何が処罰されるべき外面的行為であるかを事前に告知する法によってなされることが要求されており、また、誤った信仰は、それがその者自身に対して神の処罰を招くことは別論として(305)、他に害を及ぼさない限り処罰されるべきではない。これらは自然理性の命じる自然法の一部と解されているものと思われる。更に、内心の信仰を客観的に証明することは不可能であり、被告人が異端の放棄を裁判において宣明したところで、それが真実である保証はない(以上について293)。

ホッブズは、ニケア信仰箇条に反する言動がない限り、政治権力によっても異端として処罰されないとの、エリザベス女王以来のイングランドの取扱いを支持し、更にその上に、ニケア信仰箇条に明確に反することが必要であることを主張するとともに(301)、その処罰について法による明確な事前告知が果たしてあるのかについて疑義を呈し、結局、異端者については、いずれにせよ正当ではない「火刑」は科されるべきではなく、宗教的権威による破門とこれに伴う市民法上の処罰(その詳細は論じられていない)のみが可能であると言う(305。ホッブズの真意は、政治権力の法廷において異端を放棄する旨の宣明を、真実ではなくとも、行えば足りるということであろうか)。

なお、ホッブズがニケア信仰箇条に明確に反する見解を表明する言動の処罰に消極的ながらも肯定的であるのは、それがローマ皇帝の主催した宗教会議において議決されたことに基づく。その後の宗教会議は、本来その権威を持たないはずのローマ教会の主催に係るものであり、それゆえに正当性を持たない。また、福音書がキリストの言葉として伝える、毒麦もまた生かせとの言を引用して、処刑は法に反することを論じている。

これらの論述は、内心の信仰の不可侵、信教が私事であること、政治権力は共同体にとって有害な外面的行為に対して、法による事前の告知を経た上でのみ処罰し得ることを明らかにするものであり、近代立憲主義の一つの重要な基礎を先んじて明らかにするものと言えよう。

なお、170に、著作に当たって飾りのための引用はしない旨の宣言がある。名言である。また、同じ箇所では、ギリシア語・ラテン語の文章を十分消化して自分のものとしないで、安易にその権威に依存する姿勢が鋭く批判されている。

ケルゼン 民主主義の本質と価値

January 21, 2020 ; ケルゼン; 民主主義の本質と価値; 岩波文庫。

社会的な意味における自由とは政治的決定への参加であり、民主主義とはこのような参加を前提とした統治者と被治者の同一性であるという。しかし、そのような同一性は、階級的・階層的等の様々な利害の対立の下で、実際には不可能であり、社会技術としての代表民主制とその下における多数決が、これら対立の妥協を可能とする。他方で、将来において、あるいは別の事項について、多数者となりうる現在の少数者は、今日の多数者による圧迫から保護されなければならない。多数決が妥協の手段であり、特別多数あるいは全員一致を要求すれば、かえって少数者の弾圧を招く、という点は、説得力がある。多元主義政治理論の先駆であろうか。

三権分立及び司法審査制については、以上のような民主主義の概念から必然的に導出されるものではなく、歴史的、経験的に生み出されたというのが著者の主張のようである。法による行政、法の支配の概念は、これら三権分立及び司法審査制の現実から生まれた。

ケルゼンの論述は、一読の限りでは、体系性に欠けており、また、三権分立や司法審査制の背景にある、立法権力の濫用と腐敗、少数者の弾圧の問題を正面から取り上げていない。

ソビエト連邦の専制には批判的であるが、ソビエト憲法の内容を評価する趣旨の論述がところどころにある。問題は、どうしてその内容が文字どおりに実現していないのかにあり、統治機構の実際の動きを歴史的に分析し、権力の濫用と腐敗をどのように防止するか、そのためにどのような機構の構築が必要なのかを検討することが必要ではないのか。

著者は、ソビエト連邦における民主主義の概念を多数者の独裁として正しく攻撃するのであるが、代表民主制が多数者の独裁に陥らないための手段について十分に論じていない憾みがある。小論文ゆえにやむを得なかったというべきか。この点に関して別に論文があるのか、あるいは、「社会主義」の可能性を信じる政治的立場が背景にあったのか、関連著作を探して読む必要がある。

目次