川本皓嗣 俳諧の詩学 Koji Kawamoto, Poetics of Haiku

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川本皓嗣 俳諧の詩学

October 4, 2023 ; 川本皓嗣;

前著、日本詩歌の伝統、の内容を敷衍あるいは補足する論考が多い。詩における伝統的詩語とその本意の重要性を説く点は一貫している。

それら詩語の連想と新たなイメージの衝突あるいは相乗が新鮮なイメージを喚起し、新たな感興を生む。その感興は、伝統的な「もののあはれ」を拡張し、ひねり、ずらし、風雅あるいは風狂として読者を感動させる。

この論旨は、イギリスを中心としたイマジスム運動と俳句の比較を論じる「詩語の力」によって一層明快なものとなっている。

(なお、前著では日本の詩歌と欧米詩との違いが誇張されている印象を受けたが、本書ではむしろ欧米詩の伝統との共通性が論じられている。イマジスムは伝統との訣別を主張したが、実際の作品は伝統的詩語への依存を、当然のことながら、断ち切り得ていないことが指摘されている)。

新切字論は、切字の現在までの変遷を統計的に明らかにしており、労作ではあるが、結論が明確でない。

著者の旧論を読んでいないので、以下は推測に基づく思いつきの議論となるが、切字が発句をそれ自体として独立したものとするための、すなわち、イメージの言い切り、言い換えれば、完結したイメージの宣言を確保するための経験的に発見された技術的手段であることは、動かし難いのではなかろうか(旧論はこれを結論とするものと推測した)。

したがって、切字のいくつかが係助詞であって、結びと一体となって発句を切る、という著者の見解は正しい。結びが末五でない場合は、著者が否定的であるかに見える、倒置と捉えれば足りる。こう考えれば、切字のリストは、文章を言い切るための末尾の語(倒置されている場合は、それを正置させた上での)であると見ることができる(疑問詞や命令形が切字とされていることは、このことを如実に示す)。

切字なしの句については、このような二義を許さない言い切りの語がなく、言い切りとも他の句を予想する言い差しとも解し得る句であると理解することができる。この場合は、発句の自立性を保障するものは、その文脈であり、あるいは、その発された状況である。発句が俳句として自立したものと一般に捉えられていくにつれて、切字なしの句が容認される余地が大きくなる。しかし、それでも、明らかに言い切りではない句は許されなかったのではなかろうか。

この二義的な場合に当たる作例を詳細に研究すれば、成果が期待できるように思われる。体言止めのみならず、用言連体形が含まれるか、連体形と終止形が同じ場合はどう扱われるのかなどである。これらの点を更に研究すれば、理論の発展が期待できるのではないか。

正岡子規の俳句論については、前著をやや修正し、子規の俳句論は漢籍的な二分法、主観と客観というような単純な区別を用いているために誤解を生んでいるが、実は、客観的な事物の表現によって感興を表現することが否定されているわけではないと論じる。しかし、それにしても、子規が伝統的詩語や修辞法の役割を軽視したことは否定し難い。おそらく前著に対し子規派から批判があり、それに妥協したものであろう。

不易流行については、不易と流行が一体のものであると述べつつ、その一体性を「誠」すなわち真実の表現に求めており、明快でない。

不易なのは、宣長のいう「もののあはれ」であり、この世に生きるものの感興であろう。しかし、その表現は常に変化し、陳腐化する。流行は、これら感興の新鮮な今の表現にほかならないのではないか。

私が知る、故松崎真一画伯が「いまの絵を描け」と述べた真意もここにあったのかも知れない、と思う。

桑原武夫の第二芸術論批判は痛快である。西欧の詩と俳句を比較したその論の、一知半解な浅薄さを痛烈に批判している。年来、知る限りさしたる業績も見当たらないのに桑原が評価されていることを不思議に思っていたが、謎が解けた感を抱く。

桑原と同種の思考は、知識人たちに根強い。自ら研究し、考えよ。著者の思考は強靭である。中野重治の「おまえは歌うな」(記憶に基づく引用)の基礎にある根本的な誤解も、著者の見解を知ったことによって、今や明らかである。

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