川本皓嗣 日本詩歌の伝統 ― 七と五の詩学 ― Koji Kawamoto, Tradition of Japanese Poetry

目次

川本皓嗣 日本詩歌の伝統 ― 七と五の詩学 ―

September 20, 2023 ;

川本皓嗣;

日本詩歌の伝統 —七と五の詩学— (岩波書店、1991年);

すばらしい。名著である。

日本の詩歌の詩語と韻律の解明に取り組み、一般理論を構築し、提示する。正岡子規に始まる、少なくとも表明された理論の上では素朴かつ単純と言うしかない「写生論」を粉々に打ち砕く。文学はすべて現実を描写しようとすることに変わりはなく、その方法と表現に種々の様式があるにとどまることを明言する。

その上で、詩という文学形式が、数量ともに極度に研ぎ澄まされた「詩語」の喚起する心象を連ねて読者に意味と情感を抱かせることを目的とするものであることが指摘され、その詩語が歴史的に形成され、発展すること、これによって伝統的な意味と情感の類型(「本意」「本情」。歌論において用いられた概念である)が次第に確立し、そのような伝統的詩語が、この「本意」「本情」を支えとして、強力な、心象とこれに伴う情感の喚起力を帯びること、短歌や俳句のような短い詩形では、このような伝統的詩語の活用によってこそ、広く、かつ、深い心象と情感が呼び起こされ得ること、これらが述べられる。

秋の夕暮れは、悲哀を本意・本情とするものとして発展した。その経緯が作例を交えて詳細に論じられ、その詩語を用いながらも、「理屈」や矛盾の提示(例えば秋の夕べの情趣を否定して春の夕べの情感を詠む、見渡せば山もと霞むみなせ川夕べは秋と何思ひけむ。後鳥羽院)によって、個に独特な興趣や情感が詠われるに至ることも述べられている(42)。子規の新古今批判が論破されているのを見るのは、まさに我が意を得たりの感を抱く。

続く俳句の詩学では、俳句が豊かな詩語の群れを確立した和歌と連歌の伝統の上に初めて可能となった文学形式であることがまず指摘される。芭蕉の俳句を中心に実作品が詳細に分析され、俳句が伝統的詩語(和漢を問わない)の情感に依存しつつ、それをひねる、あるいは、もじるなどして(ひねり、もじりの概念については再読の上、検討を要する)、風狂の興趣を鮮やかに提示するものであることが論じられる。

著者の俳句の分析において極めて有効なものとして働いているのは、基底部、干渉部の分析であり、基底部は、例えば、下京や<雪つむ上のよるの雨>、の句では、<>の部分であり、表現の対象を、矛盾や誇張(この句の場合は、黒白・明暗の鮮やかな対立)を効果的に用いて、強い喚起力を持った心象・情感として提示する(157)。その上で、下京や、の句が、この情景の意味を方向づける。下京という町家が並ぶ京の夜という状況が与えられることによって、読者はこれに関係づけられた情感を抱く。

著者によれば、「写生」論の極まったものと言われる、子規の、鶏頭の十四五本もありぬべし、の句は、鶏頭の花の美しさや姿を表現すると思いきや、意表を突く「十四五本もありぬべし」という句を用いることによって、かえってありありと鶏頭の花の姿を思い浮かべさせる、その効果を狙ったものであるという。修辞を排除した詩はあり得ないのである。

最後の「七と五の韻律論」では、五七調、七五調の韻律が、明治以降の韻律論の歴史を踏まえた上で、詳細に分析される。正確な詳細は、再読の上検討を要するが、現在理解が及ぶ限りでその概要を以下に記す。

まず七五調は、2音節を1拍とする4拍子を基本的なリズムとする。音節には休止を含み、この休止が意味の区切りを明示する印となる。休止をーによって表すならば、あら ざら むー ーー/この よの ほか のー/おも いで にー ーー/いま ひと たび のー/あふ こと もが なー/というように、4拍子のリズムを刻む。

更にこれに強弱のアクセントが加わり、2音節一組の1拍は、強と弱の組合せであり、また、4拍のうち1拍目の強がもっとも強く、次いで弱く、3拍目がやや強く、次いで弱く発音され、これが副次的なリズムを成す。

4拍子は、上記のように必然的に休止を含む。そのうち、7音節の休止は、可動的であり、意味に応じて途中に移動し得る。5音節の休止のうちの一つも同様である。ただし、冒頭の1音節のすぐ後に休止を置くことは避けられた。

五七調は、これに対し、3拍子の5音節と4拍子の7音節の組合せであり、例えば、やく もー たつ/いづ もー やへ がき/と、朗詠されたのではないかという。しかし、この混合拍子においては、5音節の移動可能な休止を最後に置く、例えば「ふゆ ごも りー」のような組合せを好む傾向がどうしても強くなり、それが単調な印象を与えることから、次第に七五調への移行が生じたと考えられることが指摘されている(310)。

日本の詩歌の詩語と韻律がこのように見事に分析されている。

ただし、欧米の詩との比較を論じる部分は、やや性急な感を抱く。詩語については、日本の和歌・連歌・俳句の伝統を強調するために、欧米の近代詩との比較が挙げられている。しかし、詩は、どこでも、共同体の伝統の中で作られ、鑑賞されたのではないだろうか。伝統的詩語の発展が日本独自のものであるはずはなかろう。著者がそのことを自覚していないはずはないが、いささか誇張がある。

また、韻律については、音数律、すなわち五七の組合せに大きく依存する韻律が欧米詩に比して単調であり、長詩に向いていないと論じられているが、本当にそうなのかという疑問を禁じ得ない。ギリシア詩、ラテン詩にまで遡った精密な議論が必要であろう。また、その一方で、万葉の長歌や平家物語、浄瑠璃といった古典詩の更に詳細な分析と朗唱の復元を追求すべきであろう。平家物語がどのような韻律を用いて、聴者を惹きつけたのか、それが五と七の音数律をどのように用い、更に何を加えているのか、その研究と議論が必要である。

このような見事な研究は、その後どのように引き継がれ、発展させられているのか。意味の破壊に性急な、おそらく詩の世界にも強力に存在すると思われるポスト・モダンは、伝統的詩語と韻律をさえ無視しているのだろうか。

目次