藤田嗣治と「戦争画」 Léonard Tsugouharu Foujita

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藤田嗣治と「戦争画」 Léonard Tsugouharu Foujita

富田芳和 なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945-1949

September 18, 2022 ;

フランク・シャーマン(1917-1991)は、ボストン生まれのアメリカ人であり、画家を志し、早くから藤田に憧れていた。パリで学んでいた当時、藤田を見かけ、話しかけたかったが、躊躇して果たさなかったことがあったという。徴兵された後、アメリカ軍に所属しながら、凸版印刷に駐在して、軍広報誌等の編集や、画家を始めとする文化人のサロンの運営等を行った。その地位には謎が多いが、広い意味での情報活動に従事していたものとも思われる(近藤史人著にもその旨の示唆がある)。

来日して凸版印刷に駐在するようになってから、頻繁に藤田を訪ね、散歩や骨董品収集もともにして、藤田の人柄と芸術に深く傾倒した。既存美術界による藤田への迫害に心を痛め、アメリカへの脱出を企画し、実行した。藤田からは、新たなガードルード・スタインになれと言われたという。アメリカ在住画家のうち、国吉康雄は、ベン・シャーンとともに執拗な妨害活動を行ったが、ヘンリー杉本と彼の知る収集家が協力を惜しまなかった。

本書は、フランク・シャーマン所蔵の藤田収集品や書簡、ネガファイル等を同人からその死の直前に譲り受けた河村泳静の協力を得て、これらを参照して書かれたものである。ところどころ想像に基づく創作(両者の会話など)が交えられているが、事実関係については、おおむね信頼できるものと考えられる。藤田とシャーマンの深い友情には感動を覚えざるを得ない。(なお、藤田は君代夫人の「ヒステリー」に相当悩まされたようである。) 藤田の絵画に関しても、職人的技術への関心、衣類のデザインと縫製、額縁の制作、制作への集中とその早さ等、参考になる点が多い。

藤田の離日に当たっての発言、画家は絵を描け、けんかをするな、国際水準の絵を描け、これらの言葉は、今に至るも実現していない、これが著者の評価である。そのとおりであろう。著者は、このことに関連し、我が国独特の絵画の格・価格付けに係るシステムを痛烈に批判している。なお、1944年の梅原龍三郎らによる東京美術学校教授陣の交替劇(クーデターと表現されている)は、初めて知った。その経緯は研究の価値がある。

近藤史人 藤田嗣治「異邦人の生涯」

September 18, 2022 ;

藤田嗣治(1886-1968)の伝記としては、最も資料的価値に富むものであろう。夏堀全弘の未発表原稿「藤田嗣治論」に藤田嗣治自身が加筆したもの(その後出版された)及び君代の談話を基に藤田の生涯を描く。

戦争画に関しては、アッツ島玉砕を挙げて、それが戦争の真実と鎮魂を描いたものであることを正当にも指摘し、戦争画を口を極めて非難する者たちは、藤田の描いた絵がどのようなものであるか、実際に見ていないのではないかとの疑問を呈している。そのとおりであろう。

批判者の一人は、自らが軍医として勤務したものの、戦争画を描かなかったと述べて藤田を批判する。そのご都合主義には恐れ入るほかない。軍医としての「軍国主義」への「協力」と、画家としての「協力」にどのような違いがあるというのであろう。大衆に訴えたという点に違いを見るのか。それは質的な違いたりうるのか。軍医は軍の活動として傷病兵を治療し、これによって軍を支えるのであり、医療活動であるからといって、軍国主義への協力にならないとはいえないであろう。軍医としての協力をなぜ拒絶しないのか。拒絶できなかった、それに尽きるのではないか。それとも、医療は、不可欠であるが、芸術はなくてもかまわないものであり、そこに差があるとでもいうのだろうか。このような、人の諸活動に差を設ける考え方、一つの分野における「協力」は許され、別の分野における「協力」は許されないとの考え方にはついていけない。画家としてしか生き得ない者の徴用が戦争画なのではないのか。誠に、人は都合よく考え、信じたいことを信じるのである。

アンギアーリの戦いやナポレオンの戴冠は、あるいは、ベラスケスの王室における絵画は、あるいは、ダヴィッドの、ロベスピエールを最高存在に仕える美徳の司祭として描く式典の演出は、その政治性によって排斥すべきものなのか。おそらく、ここには、共同体の決定とそれによる徴用、政治と芸術という、深い問題が横たわっている。これらを整理して論じることは手に余る。しかし、これだけは確かであろう。すなわち、芸術はその時々の時代を、そして政治を超えるものであり、どのような政治がその「パトロン」であろうとも、人間の真実を表現するということである。そうでなければ、王室や教会、独裁者や皇帝につかえた、ダ・ヴィンチを、ミケランジェロを、ベラスケスを、ホルバインを、ルーベンスを、ダヴィッドを、同様に断罪しなければならないであろう。誠に愚かしいことである。汝らのうちで罪なきものはこの女を打て、その言葉のとおりである。

いずれにしても、藤田は、歴史に残る絵画芸術を終始目指し、戦争画もその一環であった。アッツ島玉砕(戦後、署名が藤田嗣治からFoujitaに変えられた)は、アンギアーリの戦いにも比すべき傑作であろう。アメリカ兵(黒人兵の顔が印象に残る)も、日本兵も、戦争による殺戮に否応なく駆り出され、その人しての悲惨を生きているのである。

展覧会の観客が賽銭を献じたというのも理解できる。藤田は、これらのことを言葉で表してはいないが、藤田の行動と絵から、以上を感じ取ることができる。藤田は、嫉妬と勢力争いによる排斥のための口実とも見られる戦争画批判に見舞われ、アメリカに、そしてフランスに赴いて、遂にはフランスに帰化した上で、カトリックに改宗した。

アメリカでは、ベン・シャーン及び国吉康雄(これも、政治と芸術を考える上で、深く考えるべき事件である)による排斥運動に遭い、そのためもあって、アメリカ滞在は短期間にとどまった。帰化と改宗に関しては、藤田を排斥した日本画壇への抵抗の意思も窺われる。藤田は退路を断ち、その芸術の完成をひたすら目指した。

藤田のエコール・ド・パリ、1920年代のパリにおける活躍については、藤田の画家としての精進、独自の技法と画題の追求、これが印象に残る。人と同じことをしていても成功は得られないのである。ピカソが楽器を鋸で切って、置き、それを写実的に描写してキュビズムの画面を構成していたこと、それを藤田が見て、独自性の追求に深く感動したこと、北斎の画業と人生に感銘を受けていたこと、酒を飲まず、規則正しく制作に励み、しかも、それが長時間に及んだこと、集中、そしておそらくは技法の工夫によって、恐るべき早描きを実現していたこと、これらが印象に残る。

なお、戦争画に関しては、ノモンハン事件を画題とした絵が二つあることが記されている。一つは、兵士の死と鎮魂を描いたもので、公にされることはなかったという。是非見てみたい。

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