私の文学遍歴 Literature for Me

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私の文学遍歴

1 私にとっての文学


 私は、1978年から職業に就いた。不思議なことに、そのころから小説その他の文学を読むことがほとんどなくなった。ごくたまに読もうとしても、興味が続かないのである。忙しかったためだろうか。周囲の人々の生活と感情、時に出遭う激しい言葉と感情、これらを「読む」ことに疲れたためだろうか。あるいは、一つ一つの言葉が概念と論理を紡いでいく論文を逐語的に読み解き、その論理を自分の頭で再構成する、そういった読書方法に過剰に適応して、文学を楽しむ術(すべ)を見失ってしまったのだろうか。
 この間、森博嗣の「理系」ミステリーや司馬遼太郎の歴史小説などは、多少なりとも熱心に読んだ。しかし、それは、数学的あるいはゲーム的とも言える謎解きや歴史に対する関心からであり、登場人物に共感や反発を覚えながらその世界に浸るといった読み方ではなかった。
 振り返って見ると、少年、青年時代は、濫読の季節であった。何をどう読んでいたのかも、定かには思い出せないが、授業中も密かに読書していた記憶がある。福井の生家には、亡父が集めた一通り揃った蔵書があり、当時においてもいささか古びた印象を受ける『昭和文学全集』があった。高校時代、これに読みふけった。今から思うと、戦前戦後の私小説や三島由紀夫の初期の作品など、自らの力で生きた経験もない状態で、どの程度理解できたかは心もとない。それでも、試験勉強をしなければならないときに、むしろそういうときこそ無性に読みたくなり、活字を追い続けたことを覚えている。なお、父の早い死の後しばらくして、私と家族は生家を去り、残念ながらこの全集も処分してしまった。それは、今はもう記憶の中にしか存在しない。発行年も不明であるが、角川書店が1952年ころに発行したものだと思われる。
 宮澤賢治に出会ったのも、そのころである。その「銀河鉄道の夜」は、1896年という遠い昔に生まれた人が書いたとは到底思えないような、不思議な宇宙を描き出していた。不安に満ちた私の心に、それは、異次元の世界に向かって開かれた窓のように感じられた。
 こうして、私の文学の基礎は、はなはだ偏ったものとなっている。昭和の比較的早い時期に活躍した作家が中心であり、世界文学に至っては、たいへん心細い。大学に入ってから読んだものはあるが、スタインベック、ソルジェニーツィン等に限られている。しかし、例えば、ソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」や「ガン病棟」の描写は、それまで読んだ日本の小説にはない、新鮮なものに感じられた。人物や事物が客観的かつ克明に描かれ、その積み重ねが、ちょうど塗り重ねた油彩画が深い色合いを示すように、濃密な小説世界を築いていく。それは、独白や直接的な心理描写に満ちた小説とは全く違ったものであった。このような世界文学の経験も、原因の一つになったのかも知れない。
 その後、私は文学から離れた。もっとも、昭和文学の影響が残ったためか、仕事上作成する文書の語彙に文学的なものが時として紛れ込み、注意されることもあった。今は、なつかしい思い出である。

2 短歌と詩へ


 それから長い時が経って、高松に配置換えとなった。そして、再び文学、特に短歌や詩に興味を覚えるようになった。
 初めて暮らした高松は、変化に富む美しい自然の中の静かな都市である。マグノリアの白い花にふと出会い、また、少し遠出をして海辺の小高い山に登り、潮風に散る桜をめでた。丸亀城では、高浜虚子の「稲むしろあり飯の山あり昔今」(1949年作。なお、飯野山は讃岐富士の別名のある低い山である)の句碑を見つけ、金比羅歌舞伎では、近松門左衛門作「女殺油地獄」を見て、三百年近く前の驚くべきリアリズムに衝撃を受けた。栗林公園を何度となく散策して、梅、桜、蓮、睡蓮など折々に咲く花の見事さに打たれた。そして、思いがけなく短歌を作るようになった。一人で山を歩きながら、近くを散策しながら、歌を作ってはメモに書き推敲した。賢治の詩も読み返すようになった。
 本居宣長の「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」を読み、「もののあはれ」の意味を誤解していたことに気づいたのも、このころである。それまでは、この言葉を無常観や「日本的」美意識といった型にはまった観念に引きつけて理解していた。しかし、宣長は、「もののあはれ」が有情物の心の感興一般を意味し、悲哀の感情に限られないこと、後世それが主として悲哀を意味するに至ったこと(悲哀が比較的強い感情であることによる)を明言している。宣長によれば、恋の情を含め、人々が生き、死んでいくこの世界で自ずから湧き上がる人の心情すべてが「もののあはれ」に含まれる。「もののあはれ」は、言わば人の自然であり、これに対立する「からごころ」とは、このような自然を隠し、あるいは抑圧する、虚構の「建前」や「イデオロギー」を意味することとなろう(なお、竹西寛子『往還の記』が参考になる)。
 私の勝手な解釈が正しいのかはさておき、こう考えると、宣長は、過去の私に限らず、広く誤解されているように思われる。さらに、宣長によれば、「うた」は「もののあはれ」を「文(あや)」として美しく表現するものである。新古今和歌集を低く、万葉集を高く評価する、一時代をなした短歌論は、私にも強い影響を与えていたが、これを読んで、その見方が大きく変わった。

3 式子内親王の詩的世界


 短歌の作者の中で私が最も高く評価し理想とするのは、式子内親王である。新古今和歌集には内親王の歌が数多く採られている。その歌の世界は、短歌という極めて短い詩形による制約にもかかわらず、力強く深い。
 式子内親王は、1149年に後白河天皇の皇女として生まれ、斎院(賀茂神社に仕える未婚の内親王又は女王)を務めた後、出家し、1201年に薨去した。平安末期から鎌倉初期の動乱の時代を生きたことになる。
 小倉百人一首にも採られている
  玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする[新古今和歌集]
は、忍ぶ恋の歌として余りにも有名である(以下、内親王の歌とその言葉の解釈については平井啓子『式子内親王』による)。
  山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水[新古今]
 これらの歌が忍ぶ恋、幽閉、孤絶を歌っていることから、内親王を薄幸の皇女ととらえ、このような先入観に基づいて、歌の解釈にその生涯の不幸と悲哀を読み込む傾向が生まれている(平井啓子・前出書にもその傾向が強い)。果たしてそうだろうか。もちろん、伝記的事実の伝承が乏しい内親王の人物像を明らかにするのは困難である。しかし、その歌には、動乱の時代にたぐいまれな芸術家として創造に励み、独立不羈の生涯を全うした、内心に激しさを秘めた誇り高い女性によるものに違いないと思わせるものがある。
 そうでなければ、「玉の緒よ絶えなば絶えね」と命令形の力強い調べを歌うことができるであろうか。また、松(待つ)の戸にかかる雪解けの雫(しずく)、といった、はっとするような色彩の対比、動と静の対比をどうして歌うことができるであろうか。短歌はこの時代の文(あや)を競う芸術であり、作者は、自らの経験に基づきつつも、多くの場合詠歌主体として想定される者を演じているのである。
 藤原定家は、内親王に仕えてこれを助ける立場にあり、度々伺候して、明月記にその記録を残した。明月記によれば、内親王は、穢を忌まず、仏事を忌み、祈祷を信じなかった。定家の娘には、絵も詞も自らの手になる月次絵二巻を贈った。法然の説く専修念仏に帰依した。また、内親王の出家は、後白河院の意向に反したものであり、おそらくは相続をめぐる争いから逃れようとしたものであるという(以上、今村みゑ子「定家と式子内親王―『明月記』を中心に―」文学(季刊)6巻4号(1995年冬号)73ページ及び同『鴨長明とその周辺』337ページによる。なお、内親王の生涯については馬場あき子『式子内親王』が詳しい)。これらの事実からは、加持祈祷等の王朝貴族的な観念の束縛から自らを解き放ち、内心の信仰によりつつ、歌という芸術に生き、自ら信じるところによって身を処した自立した女性の姿が浮かび上がってくる。
  ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん[新古今]
  秋こそあれ人はたづねぬ松の戸をいくへも閉ぢよ蔦(つた)のもみぢば[新勅撰和歌集]
  忘れめや葵(あふひ)を草にひきむすび仮寝(かりね)の野辺の露のあけぼの[新古今]
  [なお、この歌には「斎院に侍(はべ)りける時、神館(かんだち)にて」の詞書がある]
  ほととぎすその神山(かみやま)の旅枕ほの語らひし空ぞわすれぬ[新古今]
  [なお、この歌には「いつき(斎)のむかし(斎院当時)を思い出(い)でて」の詞書がある]
 これらの歌の色彩、視点、動と静、主観と客観、部分と全体等の大胆な対比とその間の移行が生む情感は、たとえようもなく美しく、しかも凛とした明澄さ、そこに秘められた主体の意志の強さを感じさせる(竹西寛子「式子内親王・永福門院」がこれらの点を見事に論じている)。
 そして、見方が違えば、歌の解釈も変わってくる。「ながめわびぬ」の歌について、平井啓子・前出書は、「月を見て物思いをするのに耐えられなくなった。秋のない宿がないものかなあ。しかし、いくら逃れても、野にも山にも物思いをさせる月は澄んでいることだろう」と解釈する。他書にも同様の解釈が見られ、江戸時代の加藤磐斎「新古今増抄」に従うもののようである。
 しかし、そうだろうか。この解釈では、歌の視点は幽閉の宿にとどまり、悲哀の情はひたすらに続くのみである。私には、この歌の下の句がそれまでの調子を一変させ、哀感を超越した明るさを表現しているように感じられてならない。音の連なりにもそう感じさせるものがある。なるほど「らん」はもともと現在の推量を表す言葉ではあるが、その内実を見なければならない。内親王の精神は、秋(飽き)の宿とそこに束縛された自己から自らを解き放って空に飛び立ち、天上の視点から「野にも山にも月や澄む(住む)」と歌っているのではなかろうか。そこには無限の夜空があり、明るく澄んだ月が静かに地上世界を照らしている。その月は、悲哀をもたらすものではもはやなく、これを超越した世界を象徴し、その天空を内親王の心が自由に飛びまわる。その静けさと明るさは、あるいは、人の悲哀の情を超えたさらに悲しいもの、真の悲劇的世界のものなのかも知れない。この歌の本歌と想定される歌にも諸説があるようであり、このような解釈も、少数説ではあれ、十分に成り立つのではないかとひそかに思う。
 ちなみに、藤原定家には
  思ひいれぬ人の過ぎ行く野山にも秋はあきなる月やすむらん[玉葉和歌集]
との歌がある。1201年から1203年にかけて取りまとめられた千五百番歌合のために歌われたものという。式子内親王の薨去後間もなくである。「思ひいれぬ」が「深く物を思わない」の意に解された上、そのような人の上にも感興を誘う月が澄(住)んでいると解釈されているようであるが(岩佐美代子『玉葉和歌集全注釈上巻』410ページ)、謎めいた歌であり、内親王の歌に関連した何らかの意味が込められているように思われてならない。定家自身がそう称したかは別の問題として、その日記が「明月記」と称されているのは、偶然だろうか。後世、定家が内親王に恋したとの伝説が生まれた。その真偽はさておき、定家が内親王を卓越した歌人として尊敬していたことは間違いがないであろう。内親王と定家は、歌の世界の創造におけるかけがえのない友であった。そして、二人は、時を超えて芸術の永遠に今も生きる。

4 おわりに―再び宮澤賢治へ―


  わたくしといふ現象は
  仮定された有機交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (あらゆる透明な幽霊の複合体)
  風景やみんなといつしよに
  せはしくせはしく明滅しながら
  いかにもたしかにともりつづける
  因果交流電燈の
  ひとつの青い照明です
  (ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
  [詩集「春と修羅」「序」。以下、賢治の詩の引用は新校本宮澤賢治全集第2巻による。複数の行をまとめて記す場合は、別行であることを「/」によって示す]
 これは、宮澤賢治の生前に刊行された唯一の詩集の冒頭の「序」と題された詩の一部である。賢治の世界観、すなわち自己の存在と意識がこの世界とどのように関わるのかについての認識が天才的な詩の言葉(賢治は「心象スケッチ」と呼ぶ)によって示されている。そして、その「ひかりはたも」たれて、今も私たちを照らすのである。
 私には、このような賢治の詩的世界が式子内親王のそれと時代を超えて共鳴しているように思われてならない。賢治が多用する「玲瓏」(れいろう。美しく光り輝くさま、透き通って明るいさまなどの意味がある)は、おそらく、自己の存在と意識を包み込んでその一部としつつ、これと「交流」する無限の世界、このような世界像を想起させるための、鍵となる言葉なのであろう。
 例えば
  砕ける雲の眼路をかぎり
   れいらうの天の海には
    聖玻璃の風が行き交ひ
  [同詩集「春と修羅」。なお、「眼路」には「めぢ」の、「聖玻璃」には「せいはり」の各振り仮名が付されている。また、「玻璃」とは、文字どおりには水晶又はガラスを意味する]
は、「ひとりの修羅」である詩人が涙しながら見る風景である。
 そして、賢治の精神は、地上の悲しみにこのような玲瓏の世界を対置する。
  けふのうちに
  とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
  みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
     (あめゆじゆとてちてけんじや)
   [中略]
   銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
  [同詩集「永訣の朝」]
 式子内親王が見た野山のように、「おもてはへんにあかるく」、詩人は、死んでいく妹の願いに応じて、その「そらからおちた」雨雪を「すきとほるつめたい雫にみちた/このつややかな松のえだから」妹の「さいごのたべもの」として「もら」うのである。青い松と白く透明な雨雪と、そして、悲しみと明るさとが「そら」の「ひかり」に感応してかわるがわるきらきらと輝く、この対比と転調こそが詩人の生きるあかしである。
 時を旅し式子のひかりはそらに満つ秋玲瓏の夜半(よは)の月影

(2015年7月)

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