中国革命 Mao, Chinese Revolution

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興梠一郎 毛沢東 革命と独裁の原点

classicist worksは、既に別ノート「歴史」との遭遇 において、ロシア革命の指導者たちが目指したものを、その言辞を離れて、客観的に分析する必要があることを指摘した。本書は、同じ視点に立った貴重な労作である。本ノート末尾に引用した陳独秀の述懐が胸に迫る。

2025.03.16; 興梠一郎;

毛沢東 革命と独裁の原点 (2023年、中央公論新社);

30年をかけて書きためた草稿を整理して執筆したものという。広範な文献を渉猟して書かれた労作である。

毛沢東は1893年、富農の家に生まれ、教育を求めて各種学校で次々と就学し、最後に師範学校で学んで教職を得た。その間、民族主義・民主主義に目覚め、学生を中心とした新民学会の中心的人物として活動し、陳独秀らの影響を受けて、1920, 1921年ころに共産主義に転じ、陳独秀及びコミンテルンから高い評価を得たことから、創立間もない中国共産党の幹部となった。

共産主義に転じる前は、湖南省における民主主義の実現と、その独立、中国の連邦制への再編を目指していたが、相次ぐ軍閥による弾圧を経験して、軍事力の重要性を認識し、ロシア革命に模範を求めた。折からロシアは、ヴォイチンスキーを始めとするコミンテルン要員を中国に派遣して、陳独秀らに共産党の創立を働きかけ、資金も提供していた。毛沢東は、その資金援助を求めて、コミンテルンの指揮下に入った。農村から都市を包囲する戦略も、本書によれば、スターリンがまずその可能性を指摘したようである。毛は、コミンテルンの指導に忠実であり、それゆえに指導的な立場を維持できたものと思われる。

王明らを追い落とすために行われた延安における整風運動についても詳しい。延安における毛ら幹部の特権的な生活も指摘されている。

1920年前後の毛の活動が詳細に記されており、それによると、毛が労働者・農民の大衆組織に入ってそれを共産主義の方向に誘導する方法に長けていたことがよく分かる。ストライキも扇動しているが、かなりの程度、成功を収めている。「知識人」にありがちな、冒険的指導によって絶望的な抵抗運動へと導くことなく、運動の成功によって共産主義者を獲得することを追求したのであろう。このような実務的な組織者としての能力の高さが「毛沢東」を生んだのである。

1920年前後の毛沢東の思想的変遷についての部分を読むと、明治維新後の日本の近代化と日清戦争における中国の敗北が思想の上でいかに大きな影響を与えたかがよく分かる。洋務運動、変法運動、新文化運動、そしてこれらを担った曽国藩、康有為、梁啓超、胡適、陳独秀、李大釗らはその影響を大きく受け、その多くが日本に留学し、欧米文献の日本語訳を読み、これを参考として中国語訳を出版し、「新青年」を始めとするジャーナリズムを通して、民族主義・民主主義の思想を広めた。

若き毛沢東は、中国古典に関する豊富な知識の上にこれらを読み、吸収した。そして、中国の現状を一足飛びに飛び越え、急速な近代化を成し遂げる手段としてレーニン主義を選んだ。しかし、プロレタリア階級の独裁は共産党の独裁にほかならず、民主主義的な自由の喪失は、権力の濫用と腐敗を、新たな支配階級を生んだ。胡適は、いち早くこれを予期し、陳独秀の共産主義への転向を批判し、その陳独秀もまた、コミンテルンと対立し、遂には共産主義を離れた。

陳独秀の晩年の書簡中の述懐が引用されている。「レーニンが発展させたマルクスのプロレタリア独裁は、プルードンの影響を受けている。新たな創見は、なにもない。トロツキーの「永久革命論」は、ロシアでしか応用できない。……ボルシェビキは、マルクス主義ではない。ロシアの急進的なプチブルジョア階級であり、フランスのブランキ派である。いまのドイツの ナチズムは、古いプロシアと新しいボルシェビキの混合物だ。私は、ボルシェビキの横暴、欺瞞などの罪悪を引き続き説明するために文章を書き、機会があれば発表したい。……レーニンとトロツキーの見解は、中国に合わない。ロシアと西欧においても、正しかったといえるのか? 私は、ボルシェビキの理論とその人物(トロツキー氏を含む)の価値を改めて定めるべきだと主張する。それは、科学的態度であるべきで、教派の観点によるものであってはならない。私はすでに彼らの価値を定めた。ナチスは、プロシアとボルシェビキの混合物だ。『ロシア革命の教訓』を書き、吾輩の過去の見解を徹底的に覆すつもりだ。」(422。唐宝林、林茂生『陳独秀年譜』490-491によるとのこと)

なお、陳独秀に関する別ノートを参照のこと。

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