スピノザの著作をめぐって On and Around Spinoza
國分功一郎 スピノザ―読む人の肖像
労作である。畠中尚志(別ノート「古典と古典語」に言及あり)の翻訳を高く評価し、本書を同氏に捧げていることにも好感を覚える。スピノザの著作を網羅的に紹介しており、文献も詳細に引用している。
しかし、ドゥルーズやバリバールらの「フランス哲学」「ポスト・モダン」の影響にどうしてもついていけない。振る舞い、手つき、定位等、どうしてこんな言葉を使わなければならないのであろう。また、フランス哲学には、概念の定義を明確にしないまま、しかも、同じ言葉の繰返しを避けるという修辞的な要求を優先させ、同じ概念について様々な言い換えをしつつ、論を進める傾向がある。本書にもその影響があり、論理を追うことの妨げとなっている。なお、著者は、あとがきにおいてドゥルーズを超えた部分があるとの自負を述べる。この点についての正確な評価は、ドゥルーズを読まなければ下せない。
ざっと一読した限りでは、次の点が疑問として残った。
スピノザは現代的な意味における「読む人」には該当しないのではないか。当時の知識人は、社会の生産活動や統治に関わり、学問もこれに密接に関係していたのではないか。
スピノザの神は、自然科学的な、自らの必然性に基づいて運動する自然であるとされるが、オッカムのウィリアムが前提とするような神の万能性あるいは恣意性、その否定は、スピノザの哲学においてどのように導出されるのか。言い換えれば、因果律に支配されない「神」がいないことは、どのように導かれるのか。
人の意識が生産活動・統治活動への関与、すなわち実践を媒介として、様々な断片的法則系を認識し、蓄積していくことは、どのように位置づけられるのか。理性的な概念の認識に関する部分が、よく理解できない。ピタゴラスの定理は、自然法則として自然に内在する。しかし、これを人はどのように認識するのか。人は、その社会的実践の過程でその認識を獲得し、これらの認識を言語等の記号を使用して外部に対象化し、保存し、伝達するのではないか。
共同体による禁止・命令を内容とする優越的な意志が対象化されたものとしての、法規範を含む社会規範は、スピノザ哲学においてどのように位置づけられるのか。社会規範の生成と国家によるその強制、これらの必然性は、スピノザによってどのように理解されているのか、あるいは理解されていないのか。
木島泰三 自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史
February 8, 2021 ;
木島泰三; 自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史;
スピノザを多く引用し、その決定論に賛成するものと思われる。思われる、というのは、随所でスピノザを引用しつつ、それに明確な賛意を与えることを避けているからである。スピノザの「人間の本性」についての言及もない。したがって、人間の実践と認識活動の関係という決定的要素の考察が欠けている。超越的目的の存在を前提とした「運命論」とありのままの自然の一部として人間をとらえる因果的決定論、あるいは自然主義的決定論を区別するのは、正しく、また有用でもあるが、自然の無限性と永遠性、これに対する人間の認識活動の有限性、これらによってもたらされる未知の「偶然」との遭遇といった点が抜け落ちているため、到るところで曖昧な論述しかなし得ない状況に陥っているように見える。
以下、注目した点を列記する。
はじめに: 不確定性原理の解釈がいかにあれ、それが非決定論の根拠とならないことを論じる。まったく法則性のない「偶然」と自由な意志決定は異なることも指摘している。
第2章: 決定論と運命論は異なるという説明において、運命論とは、私が何をしようと帰結が決定されているという考え方であるという。しかし、そうだとすれば、それはそもそも決定論には属さないであろう。私が何をするのかも因果的に決定されているというのが決定論だからである。著者のいう決定論とは、これを合理的に解釈すれば、ある結果がある行為によって生じる場合には、その結果の発生は、人の意識を媒介にしていること、これを否定する考え方ということができよう。p.137に論じられていることは、この考え方に近いが、論述が混乱している。ただし、「因果的決定論」「自然主義的人間観」が超自然的な存在による目的的決定を前提とする「運命論」とは異なるとの指摘をするものであれば、それは正当であり、しかも著者の後の論述においては、実質的に見れば、この対立を前提とした正しい議論が行われていると考えられる。
102: スピノザの「偶然」に対する考え方については、正しい理解を示す。
110: ルターの予定説についての論述には誤解がある。「いくら努力し、善行を積んでも裁きを覆せない」旨の記述があるが、そうではなく、努力し、善行を積むことそのものも決定されているのである。記された趣旨の理解を示す文献があるのだろうか。
227: 社会ダーウィン主義なるものが作られたレッテルであることが正しく指摘されている。
第8章: 超越的な目的による支配を排除した因果的決定論の妥当性を説く。「他行為可能性」、についての論述があるが、理解できない。要するに人の意識による決定が介在していることを指摘するにすぎないのではないか。もし、意識的決定の被決定性をも否定するのであれば、それはもはや決定論ではないであろう。決定論と責任が両立することは、共同体の存在を考慮しなければ、理解できないはずである。そのことが全く論じられていない。制裁と報奨を与えるのは共同体の権力である。これがスピノザの答えである。後に帰結主義の名の下にこの考え方の一端が紹介されてはいるが、論旨が混乱している。時空の無限性と永遠性によって我々は我々の行為を決定している原因を知らないが、その我々に共同体の存続のために共同体の権力によって科されるのが刑罰である。
358: 刑罰理論と自由意志に関する要約的論述がある。
371: 「倫理を快楽主義と「古典的」功利主義に還元しようとしたベンサム」なる記述がある。他からの引用とはいえ、この浅薄な理解に驚く。
375: スピノザの因果性が当時支配的であった「行為者因果性」であると説く。行為者の目的による決定が前提とされているというが、理解が困難である。何か根本的な誤解があるのではないであろうか。スピノザが「機械的な自然主義者である」旨の記述もあるが、これも理解できない。他からの引用であろうか。著者が本当にそう考えているとすれば、これもまた浅薄としか言いようがない。
いずれにせよ、本書は、スピノザ、ホッブズ、デカルト、ジェームズらを豊富に引用し、決定論をめぐる哲学史の全体を概観するものとしては有用である。
エチカ
February 4, 2021 ; エチカ、畠中尚志訳、岩波文庫;
自然の一部である人の身体と精神の被決定性、人の本性(自己保存)と人の諸感情の原因、永遠性の認識と神への知的愛による人の本性の理性的な在り方について論じるものである。幾何学的な証明の形式を採っていることもあり、難解と言わざるを得ないが、備考や付録と題する部分には比較的分かりやすい論述がある。以下、飛ばし読みではあるが、重要と思われた部分を摘記する。
1:32(第1部定理32)、意志の被決定性。
1:33、偶然というものが実在するわけではなく、それは認識の限界の外にあることを示すにすぎない。
1:付録、神の目的に関する宗教的幻想への反駁。他著作にも見られる比較的理解が容易な解説が繰り返されている。
2:13、人間の精神の対象は身体であること。身体が受ける刺激を精神が表象として受け取り、外部に存在するものの観念を得る。
2:35、自由の意識は、「彼らが彼らの行動は意識するが彼らをそれへと決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存する。」
2:40-41、表象と理性の区別、概念の生成等を論じるが、難解である。概念の意義に関連して、感覚、理性、総合的な直観知(永遠・無限な自然すなわち神についての)の区別を論じるものと思われる(5:30以下参照)。媒介項としての実践が抜け落ちていることによって難解なものとなっているのではないか。
2:44、時間とは運動の遅速の比較から生まれた観念であること。
2:48、自由意志の幻想を否定。
3:2、身体と精神は、人の延長・思惟という二つの側面をいうものにすぎない。そして、両者はともに神のうちにあって決定されており、精神が身体の運動と静止を決定しているわけではない。p.174に以上の趣旨の明確な記述がある。すなわち、以上から明瞭なことは、「精神の決意ないし衝動と身体の決定とは本性上同時に在り、あるいはむしろ一にして同一物なのであって、この同一物が思惟の属性のもとで見られ・思惟の属性によって説明される時、我々はこれを決意(デクレトウム)と呼び、延長の属性のもとで見られ・運動と静止の法則から導き出される時、我々はこれを決定(デテルミナテイオ)と呼ぶということである。」
3:9、人の精神における意志、精神と身体における衝動は、自己保存のための、人の本性そのものである。善の判断から欲望(意識を伴った衝動)が生じるのではなく、あるものを欲望するがゆえにそれを善と判断すること。さらに3:39にその詳説がある。
4:18、「人間にとって人間ほど有益なものはない。」共同体の必然性を示す。人間の本性、その活動能力の発揮にとっての共同の有用性を説く。
4:19-22、善を自己保存への適合性によって定義する。第3部の感情論、第4部の善悪論を見ると、ベンサムがいかに多くをスピノザに負っているかが分かる。ベンサムはスピノザに言及しているのだろうか。なお、第1部、第2部については、思惟と延長の一体性を説く点においてヘーゲル哲学を彷彿とさせる。スピノザは人間に限らず万物が神の思惟の一部を有するかのように説く。ヘーゲルはスピノザをどのように評価しているのだろうか。<追記: 世界の大思想9の解説によると、ヘーゲルは精神現象学の序においてスピノザを高く評価し、「人は哲学を始めるとき、まずスピノチストであらねばならぬ」と述べているとのことである。なお、この解説は、スピノザが実体を物的にとらえたとか、あるいは、固い因果的決定を主張したなどと述べ、それが後世の批判を招いたと論じている。いかにも理解が浅いように思われてならない。スピノザの論述がそのように果たして読めるものだろうか。
4:35、理性による共同によって人間の本性がよりよく実現されること。人間が人間にとって有益であることの認識が強調されている。人間は「社交的動物」であるとの表現がある。
4:37、自然状態から国家状態への展開について、国家論と同旨を述べる。正義・不正義の観念は国家を前提とする。
4:37、道義心、端正心等を定義する。いずれも理性に従う人の欲望をいうものである。理性とは、つまり、共同体による人の本性のより一層の実現の認識にほかならないのであろう。すわわち、我々の欲望が自然の一部である人間の本性に基づくこと、及び人の結合すなわち共同体がその実現に資することの認識である。
5:序、デカルト批判。理性は感情を完全に規制することはできないと論じる。
5:5、感情をその原因から必然的なものとして認識すること、これが理性への途であること。理性に基づく感情は持続的であり、強力であって、他の感情を克服し得ること。
5:19、神を悲しみの原因として認識する限り、我々は喜びを感じる。
5:32、永遠・無限な自然すなわち神の認識が神への知的愛を導く。
5:36、神に対する知的愛は、神が自己自身を愛する神の愛そのものである。
5:41、賢者とは、神への知的愛に基づく勇気(animositas. 3:59。単に理性の指図に従って自己の有を維持しようと努める欲望。例えば節制、禁酒、危難の際の沈着)と寛仁(generositas. 3:59。単に理性の指図に従って他の人間を援助しかつこれと交わりを結ぼうと努める欲望。例えば礼譲、温和)により導かれる者である。これに対し、民衆は、宗教的迷信が説く恩寵と罰によって神の法則に導かれている。
国家論
January 28, 2021 ; スピノザ; 国家論、畠中尚志訳、岩波文庫(1940年初版刊行);
訳者の解説によれば、本書は、エチカを書いた後である1675年以降に書かれ、死後出版された。自然状態から国家状態を求める必然性と、これによって成立する国家の在り方を論じる。以下、注目点を列記する。
1:1、「哲学者たちは、我々が悩まされる諸感情を、人間が自己の罪責のゆえに陥る過誤であると考える。だから彼らはこうしたものを笑い、泣き、あざけり、あるいは(もっと神聖ぶりたい者は)呪詛するのを常とする。このようにして彼らは、どこにも実在しないような人間性をいろいろと賞揚し、現実に存在する人間性を種々の言葉で貶めうる時に、何か崇高なことでも為し、英知の最絶頂に達したかのように信ずる。」
1:4、「私は人間の諸行動を笑わず、歎かず、呪詛もせず、ただ理解することにひたすら努めた。」/2:3、人間を含む自然物を存在させ、かつ、活動させる力は、絶対に自由な神の力そのものである。/2:5(第2章第5節)、人間は、諸感情に従属して、生存のために欲望に従って行動する。
2:11、「精神は理性を正しく用いる限りにおいてのみ自己の権利の下にある。…理性において最もすぐれ、理性によって最も多く導かれる人々は、最も多く自己の権利の下にある。私は、理性に導かれる限りにおいての人間をおよそ自由であると名づける。こういう人間は、その限りにおいて、自己の本性からのみ妥当に理解されうるような諸原因によって行動へ決定されるからである。もっとも彼は、それらの諸原因によって必然的に行動へ決定されるのであるけれども。なぜなら自由は行動の必然性を排除せず、かえってこれを前提とするからである。」(引用符中は要約。以下同じ)。2:7にも自由に関する議論があるが、難解である。ただし、そこでは、自由が偶然とは異なることが指摘されており、2:11でも同指摘への言及がある。なお、2:20に自由と理性の関係について言及がある。「人間の自由は、人間が理性によって導かれ、欲望を抑制しうることが多ければ多いだけ大きい。」
2:15、スコラ学による「社会的動物」としての人間の定義に賛成する。
2:17、民主政治の定義。「法律を制定し、解釈し、廃止し、都市を防備し、戦争と平和を決定するなどの配慮が全民衆から成る会議体に属する時に、その統治は民主政治と呼ばれる。」
3:3、国家による強制と個人のそれへの従属の目的は、自然権を有する各個人の間の和合による自己保存である。
3:18、人間の本性とは、万人に普遍的な自己保存の欲望である。それは、人が感情的であろうと、理性的であろうと異ならない。
4:6、最高権力の横暴は、自然状態から国家状態を作り出した契約を終了させる。抵抗権の語は用いていないが、それを当然の前提としているものと考えられる。
5:4、専制国家は、国家ではなく、曠野と呼ばれるべきである。
5:6、自由な民衆の建てる国家こそが人間の和合を実現する。
5:7、マキャベリを論じるが、明快ではない。マキャベリは、「自由な民衆が自己の安寧をただ一人の人間に絶対的に委ねることをいかに用心しなければならぬかを示そうとした」と述べる。
6:1、人間は必然的に国家状態を求めることが指摘されている。訳者注は、この部分がホッブズへの駁論であることを指摘している。
6:4、専制の下の隷属、野蛮、曠野は、平和とはいえない。
6:8以降、君主制の下における国制について最善と考えられるものを提案する。各氏族(訳者によると、相当な数によって構成され、一種の地域的・選挙区的なものである)の代表者によって構成される顧問会議(その一部は常勤)が国政に関する事項について議論し、一定数以上の賛成を得られた複数の案を王に提示する。
6:10、国民軍の不可欠性を指摘する。(傭兵に反対する趣旨であろう。)
6:40、宗教と国家の分離を主張し、教会堂を都市の費用によって建ててはならないことを述べる。
7: 王もまた不変の法に従うべきこと。これを保障するのが、顧問官会議であり、国民軍であること。特に国民軍について7:12, 7:17で詳細に論じ、傭兵の害を説く。顧問官の任期は限られなければならない。
7:14、「絶対統治は、王にとって危険であり、臣民にとって呪わしく、神及び人の掟に反する。」旨の記述。氏族が一種の血縁的選挙人団であることについて(7:18)。
7:19、土地の公有性の主張。7:15、王位の世襲に反対する。後継は、本来の最高権力である民衆によって決定されなければならない。
7:27、貴族に対する批判。人間の本性は貴賤を問わない。
7:28-29、民衆が正しく判断するには、情報が公開されていることが必要であること。
8:、Patricus(貴族の訳語が充てられているが、一般にいう貴族とは異なり、選挙によって統治に携わる者を指す)による一種の代表民主制について論じる。貴族が多数でなければならないこと、それによって個人の恣意が斥けられることが論じられている。人間の本性が、富と名誉を求め、嫉妬によって敵対し、他人を支配することを求め、また、容易に腐敗することを前提として、貴族の最高会議のほか、護法官会議(監督)、元老院(執行)、裁判所を分立させ、相互に牽制させることの必要性を説く。
8:26、宗教と国家の分離を説き、各宗派に共通する一般的教義を奉じる国教を建て、貴族にその儀式をさせることを提唱する。
8:49、教育の自由の提唱。
9: 一種の連邦制における統治機構の在り方を論じる。スピノザは、このような連邦制を自由の確保において優れたものと評価している。
9:14、「人間の精神は一切を一気に洞察するにはあまりに鈍麻であり、むしろそれは、協議し、確認し、討論することによって鋭くされる」旨の記述がある。
10:1、マキャベリが国家の崩壊(独裁者の恣意によるものを念頭に置いているものと考えられる)を予防する措置を論じていることを指摘する。10:12、上記について、提唱に係る「貴族」制の優位を説く。
10:5、贅沢禁止の法律が逆効果であることを指摘する。10:6、貨殖欲は名誉欲と結びつく。それゆえ富者には前者を奨励すれば、富者を善行に導くことができること。10:8、国家が個人に特別の栄誉を与えることは正しくない。10:9、国家の基礎である法が理性と感情の双方によって支持されることによって国家は存続する。
11:1、民主国家について論じる。スピノザによれば、富者のみの民主制であっても、国民の中の法に定められた資格を有するものがすべて国政に直接関わることができれば、それは民主制である。11:3-4、民主制からは婦人及び下僕が除外される。婦人についてこのような差別を設けることが正当化されることを比較的詳細に論じている。時代の制約というべきであろう。
神学・政治論
January 21, 2021 ; スピノザ; 神学・政治論 聖書の批判と言論の自由、畠中尚志訳、岩波文庫;
聖書の内容の、その成立史と言語への洞察に基づく、合理的な把握を主張し、信仰と哲学を峻別すべきこと、国家は人の行為のみを規制の対象とすべきであり、思想・言論の自由を規制してはならないことを主張する。本書は、1670年に、著者名を示すことなく、ハンブルクが出版地であるかのように偽装されて、出版された。社会契約を論じる部分は、ホッブズの影響を受けたものと思われるが、その旨の記述はない。以下、各所の要約を示す。
44-45: 恐怖から迷信へ、迷信から宗教へ。「宗教に藉口して惹き起こされる騒擾」は、「行為のみを責めて言論はこれを罰しない」という原則によるならば、美化されず、生じることもないであろう。
62: 預言者たちへの啓示は、言葉又は形象によってなされたが、それらは預言者たちの表象力の外に存在した真実なものか、あるいは、単に表象的なものか、いずれかであった。
84-85. 71-72。第2章: キリストは精神のみで神と交わったが、他の預言者たちは、モーゼを含めて、表象力の助けによってのみ、神の啓示を受け取った。そして、表象力が把握した言葉あるいは形象は、何らかの自然的原因によって生じたものである。各預言者に与えられる啓示すなわち表象は、各預言者の能力や性向によって与えられる。したがって、預言は、神が人を決定する手段なのであり、その言葉の内容自体が真理を表しているわけではない。それゆえ、天動説を前提とした言葉も啓示の中には含まれ得る。
124: 決定論を説明する。自然の諸法則は、すなわち神の決定と指導である。運命とは、「思いがけない外的諸原因によって人事を導く限りにおいての神の指導そのもの」である。
130-133: ユダヤ人に対して律法を啓示したのは、その特定の国家に対して、これに応じた特定の律法を授けたというにすぎない。
149-150: 自然の諸法則によって必然的に決定されるとはいえ、それは人間の意志に依存し、その力によって実現される。
162-163: キリストは、預言者ではなく、すなわち、表象力によって啓示を得たのではなく、その精神をもって神の啓示を認識し、これを「神の口」として伝道した。
172: 神の法は、すべての人間の自然的知性、すなわち自然的光明に普遍的である。それは人間の本性から導き出されるものであり、人間の精神に生得的であるということができる。
182-184: 人間の本性は、一方において、欲望と激情による判断を不可避のものとするため、権力による支配が要求される。しかし、それは、同意に基づき、自発的な遵守を促すものでなければならない。民主制を主張する。モーゼの一族による宗教的支配について論じる。
188: 日本への言及あり。聖書の記述は、真実を述べるためのものではなく、民衆をその把握力に応じて従わせるためのものである。
190-191: 聖書中の神の存在に関する思弁的内容を要約する。これを聖書は、民衆の把握力に応じて物語によって示しているが、これを自然的光明によって明瞭かつ判然と認識することも可能である。
第6章: 奇蹟とは、神すなわち自然の諸法則によって生起したことであって、当時の人々の把握力によっては自然の現象であることを認識し得なかったもの、すなわち、その能力を超えていたものにすぎない。
第7章: 聖書解釈の方法について論じる。各言葉の、歴史的・全体的文脈の中における意味の確定を主張する。聖書の意味は、聖書のみから求められなければならない。<しかも、それは上述のとおり、真実を述べるためのものではなく、説得するためのものである。 > その手がかりは、改変することが困難な各言葉の意味である。そのためには、ヘブライ語の知識が不可欠である。新約聖書はヘブライ語で書かれたものではないが<アラム語によって書かれた。アラム語はセム語に属する>、それでも、ヘブライ語の影響を受けており、その理解が不可欠である。以上の方法によっても、ヘブライ語の曖昧さ(母音を記さないことによる混乱、大いなることを「神の」と表現するなどの比喩性等)や、各篇の著者及び成立史が明らかでないことなどの困難があることを指摘する。このため、聖書のすべての章句の意味を完全に解明することは不可能である。なお、自然的光明によって認識される事柄と矛盾するからといって、解釈を曲げるのも誤りである(マイモニデスを批判する)。すべて預言者の言葉は、その時代の状況に応じて民衆に説くためのものだからである。
宗教は、内心のものである。それは、外的行為を規制するためのものではない。したがって、聖書をいかに解釈するかは各個人が決定すべきことであり、大司祭や教皇が決定し得るものではない。
第13章(下巻): 以上の論述の簡潔な要約を示す。聖書は、哲学的原理すなわち自然的光明による認識を明らかにしようとするものではなく、民衆に神への服従とそれによる隣人への愛を説こうとするものである。これ以外の、自然的光明によって、すなわち哲学によって明らかにすべきことを聖書の中に求めるのは誤りである。哲学は啓示宗教から分離されなければならない。
127: 神が求めるのは、神的正義と愛の認識であり、その有無は、その人の行動から判断され、内心から判断されるのではない。
第14章: 信仰と哲学の分離の主張を繰り返し、服従と隣人への愛以外の教えを聖書から導き出して他に強制しようとする者たちを批判する。
137: 教会の論争は、服従のみを、しかも行動による服従のみを唯一の信仰の基準とすれば消えるはずのものである。このような服従のための基礎となる教理は、神の存在、唯一性、遍在性、神による権力、神への服従による救済、神の赦しである。真理を求める哲学は、服従を説く信仰に関する神学とは切り離されなければならない。
155: この服従の信仰は、自然的光明によって真理とされるものではなく、これによっては究められない。これは啓示であり、預言者たちの言葉の心性的確実性のみに基づいて受容された。
第16章: ホッブズ的自然状態から契約へ、を論じる。人々は、その欲望に従って行動する「自然権」の一部を「最高権力」に委譲して平和を得る。<この自然状態は宗教に先行する。> 契約は「民主制」に導く。その目的は、自然権をできる限り確保しつつ、相互の闘争を抑制することである。最高権力は「圧制」を続けることができない。<抵抗権を前提とするものか。明示の言及はない。なお、ホッブズのリヴァイアサンの刊行は、1651年であり、本書に先行する。
187: 暴君に対する反抗を是認するかのような記述がある。各個人は自然権の全部を委譲することはできない。
217付近: 古代ヘブライ国家が神政国家であり、神の命令すなわち律法の解釈権を有する大司祭(ただし、諮問があった場合に限る。レビ族が世襲した)と、行政に携わる各「牧伯」の相互牽制、そして、傭兵の禁止に基づく人民軍の武力による牽制によって、権力の恣意を抑制していたことが論じられている。また、神政ゆえに、圧制は、新たな預言者による民衆の離反を恐れなければならなかった。
222: 律法は、孤立したヘブライ国家に適応したものであり、異民族に対する憎しみと、自民族内の相互扶助を説いた。
225: ヘブライ国家の滅亡の原因を論じる。レビ族への宗教的権威の集中が他部族の反発を招き、これを利用して次々と王が現れ、圧制に陥り、倒されたという。
256: 神の律法は、最高権力によってのみ法的効力を持つことが論じられている。<外的行為の規制にとどまることから導き出されるのであろう。> それはモーゼの時代においても同じである。神が直接に人間を統治することはない。
267: キリスト教会の結婚禁止が世俗権力に対する自立性を確保するための手段であることを論じる。/第20章: 最高権力は内心の自由を侵害し得ない。
275-276: 国家の目的は自由の確保に存する。行動と内心の意見(表明(不法な行動を促すものでない限り)を含む。「言論の自由」の語も用いられている)の峻別を主張する。
279: 抵抗権と思われるものを承認する。
280-281: 最上の国家は哲学する自由を許容する。国家に対する忠誠は、もっぱら行為のみによって識別され得る。学問や芸術は、何物にもとらわれない自由な判断によって発展する。
285: あるべき民主国家は、行為を義務付けるが、意見を義務付けはしない。
286: 当時のアムステルダム市政を上述の見地から高く評価する。
287: 思想・言論の自由に関する結論を要約する。
本翻訳の第1刷は1944年6月1日である。訳者は、スピノザの主要著作をすべて翻訳している。
神・人間及び人間の幸福に関する短論文
January 10, 2021 ; スピノザ; 神・人間及び人間の幸福に関する短論文、畑中尚志訳、岩波文庫;
訳者は、p.42注2において、梗概中の決定論に関する「この誤れる原則から」との言及について、これにより、この梗概がスピノザ信奉者によるものでないことが分かる旨述べているが、この言葉は、弾圧の危険性を顧慮した奴隷の言葉と考える余地があるのではないか。
以下必要と思われる部分のみを読む。
16章161-163: 意志は理性の有であって、実的有ではないこと。無からは無しか生まれないから、意志から実的有は生じないこと。<人の意思から独立した実在の承認>
17章166-168: 欲望は、自然の秩序及び経過によって生じるものであり、それゆえ自由ではあり得ないこと。
18章169-171: 神すなわち全自然の一部として、決定されるものとしての人間について論じる。人間は、このことの認識によって、傲慢、怒り、嫉妬、悲しみ、絶望、恐れ等から解放され、隣人愛がはぐくまれること。「人間は、自然の一部分である限り、自然の諸法則に従わなければならない。これこそが神への奉仕である」(以下「」中の引用は要約であることに注意)。
19章: 身体と精神の関係について論じる。174「各々が無限で完全である無限数の属性から成る実有」が神である。それは、「無限なる自然」である。
25章: 悪魔の不存在の証明を論じる。自然すなわち神の一部として、神に全く反し、その一部たり得ないものが存在するはずがないこと。したがって、人間の憎しみ、嫉妬、怒りその他の感情は、自然の中で必然的に生じているものであって、悪魔を原因とするものではないこと。<この章は、エチカには含まれておらず、それゆえ、この書はエチカとほぼ同じ内容を述べるものであるが、それに加えて、悪魔に関する章を含む著作として言及されてきた。おそらく、弾圧の危険への顧慮によって、エチカからは悪魔に関する論述が除かれたのであろう>。
26章: 自由とは、知性が外の事物に影響されずにその本性に従って、すなわち内的原因のみによって活動することである。<おそらく、このように要約できよう。更に研究を要する>。
26章末尾付近: 本章が終章であり、その末尾付近に次の言葉が記されている。「一切を終えるためになお私に残るのは、私がこれを書き与える友人たちに次のことを言うことだけである、――ここに述べてある諸々の新奇な説に驚いてはくれるな。けだしある事柄が多くの人々によって受け入れられないからとて、そのゆえに真理であることをやめはしないのは、諸君の充分よくご承知のところだからである。しかも、我々が生存しているこの時代の性格のいかなるものかは諸君も知らなくはないのだから。私は諸君が、これらのことを他人に伝えるについては、充分用心せられんことを切にお願いする。」(仮名遣い等の変更あり)。冒頭の翻訳者の説は、この言葉からも誤りの可能性がある。
第2付録: 観念すなわち事物の想念的本質について、また、精神と身体の関係について、整理した形で論述する。観念もまた神の属性の一部をなす。
なお、本書の翻訳について、最近の翻訳者が、まえがきのambergrisが竜涎香を指すのに、これを琥珀と誤訳していると批判しているが、たいした問題ではなかろう。畠中氏の業績に負うことを示さず、その名を示さないままこのような指摘をしていることに疑問を覚える。更に、ラテン語とオランダ語をめぐる何らかの問題があるのかもしれないと思う。
知性改善論
January 10, 2021 ; スピノザ; 知性改善論、畑中尚志訳、岩波文庫;
翻訳者解説は、知性の把握した実体の中の個物がどのように把握されるのかの問題が解決されていない、と述べる。エチカにおいても同様であり、知性による実体の把握に、個物の認識が十分な媒介なしに並置されているという。これこそが実践における系の切断の問題であろう。形而上学が避けられないこと、その一方における実践の必然的な存在、それらを論じることは、少なくとも、この翻訳者解説の提起した問題に答えるものとなろう。
p18: 人間の本性とは、「精神と全自然との合一性の認識」(coginitio unionis quam mens cum tota Natura habet)であり、最高の善とは、「他の人々とともに、こうした本性を享受するようになること」であること。
32-33: 真理とは事物の想念的本質であり、観念であること。「最初の想念的本質がどのようにして我々に生得的に存するのかは、自然の探求に属する問題である。そして、観念なしには肯定も否定も、また意志も存しない」(以下「」の中は要約であることに注意)。<この「自然の探求に属する問題」は、私見によれば、ポリス的動物としての生存と繁殖のための実践系の切断によって解決されるべきものであろう>。真理は、事物と観念の一致であること。「確実性と想念的本質は同一物である」<実践による確認を言っているとしか理解できないように思われる>。
36: 「観念は全くその形相的本質と一致すべきものである」。
39-40: 懐疑論者に対して、デカルト的な議論、すなわち、肯定し、否定し、疑う自己の存在が確実であることをもって反論する。<このように自然の一部である自己の身体及び精神を疑い得ないことが自然すなわち神の存在の証明になるということなのであろう>。
44: 個別的事物の認識については明瞭性が増すこと。他との依存関係の解明による必然性・不可能性の認識が明瞭性をもたらすこと。<一応このように理解したが、やや難解である>。
45: 肯定はされるが否定され得ないものが「永遠の真理」であること。<形而上学の定義ととらえることができる>。
45-46:地動説をめぐる認識の歩みを例証として挙げる。<これは、仮説と検証以外の何ものでもないと思われる>。
50-51: <いわば、合理主義に翻訳された経験論というべきではないのか。スピノザは経験論的証明であることを否定するのであるが。> 諸部分の「連結性」の主張がここにもある。<これこそがパースのいうチャンスをもたらすものであろう>。
56: <「明瞭かつ判明であること」が真理の基準とされているが、真理とは実在と観念の一致である以上、これは実践による必然性の確認を伴うものと考えるべきであろう>。
63: 「自然の根源は、唯一無限であり、一切の有である」。
67-68: 「有形的なものによって表象力が触発され、脳における印象の感覚が一定持続の意識と結びつき、記憶となる」。/69: <表象力を感覚と同義に用いているのか>。
70: <感覚から法則の認識に進むことを説いていると思われる>。「精神が一定の法則に従って活動し、いわば一種の自動機械であること」を主張する。
77: 「最上の結論は、ある特殊的肯定的本質から引き出されるべきである」「我々は、できるだけ多くの特殊性の認識を目指さなければならない」。
81: <個物の認識の「補助手段として」の実験、すなわち実践について述べるものか。>
スピノザ往復書簡集
January 10, 2021 ;スピノザ(1632-1677); スピノザ往復書簡集、畑中尚志訳、岩波文庫;
以下、書簡の番号ごとにノートを記す。
# 9-12: 実体=無限、様態(Modus?、訳ではモードス)=有限。<私見によれば、様態は、実践における切断系ということになろう>。持続を時間と混同し、これを分割しようとすると、無限分割(ゼノン)の困難に陥ること(p.65)、すなわち、数も大きさも時間も表象の一手段にすぎないことが指摘されている(p.65)。時間分割の困難とは、ある一定時間の経過を例えば2分の1ずつ無限に分割することを想定した場合のパラドックスあるいは矛盾をいう。結局、スピノザは、時間の観念が事物の運動を測定するためのものにすぎず、それ自体として実在するものではないことを指摘しているように思われる。p68の神に関する議論: 何者にも依存しない、存在を本質とする存在があること、すなわちそれ自体が原因であって、他の事物の作用の結果ではないものが存在し、それが神すなわち自然であること。
# 21: 神は決定者であり、審判者ではないこと。人は、神の決定によって行動しつつ、かつ、自由であること(P.131)。人が、自然の一部として他物に依存し、決定されつつ、必然的に行動していること。これらの点に関するデカルトの主張についての議論(p.133)。思惟する物としての人間。実践の役割を論じるものとして解釈できるか(133-134)。意志の自由に関する議論がなされているが、やや難解である。
# 23: 神の決定。存在の必然性。神は善悪の審判を下さない。
# 43: 一切が必然的に神の本性から発すること(222-223)。これは、宇宙は神であると主張するのと同じである。審判者ではない、存在そのものが神である。
# 75: 一切が神の本性から不可避的必然性により生起する(329)。キリストの復活は、精神的な啓示であり、それにとどまる(331)。その他の点を含めて、聖書の合理的な解釈を主張する(332)。
# 6: 「私は神を自然から切り離さない」(以下「」中の引用は、逐語的ではなく、要旨を示すものとして理解すること)。
# 56: 必然と偶然は実在として対立するものではなく、認識の問題であること。必然と自由が対立する概念ではないこと(260)。
以上を読んでの断想: ヘーゲルとの対応に驚く。スピノザの実体としての神、無限の自然としての神、その認識としての自然知性、この概念は、ヘーゲルの理性に相当するものであろう。そして、自然の部分のその時々の在り方を示す「様態」の概念は、ヘーゲルにおける「概念」そのものである。様態の認識は、スピノザにおいては「表象力」によってなされる。これこそがヘーゲルにおける悟性ではないか。しかも、様態の認識は、否定による規定を伴う。概念の自己否定性がヘーゲル弁証法の核心であるとするならば、それは、様態の認識の在り方によって必然的に生じるものである。ヘーゲルの、自由とは必然性の認識であるとの規定も、上記スピノザの自由論から理解することができる。
# 56: 続き。必然とは強制を意味しない。「生き、愛し、様々なことを欲するのは、強制されたものではないが、それでもやはり必然的な行為である」(260)。
# 73: 神が万物の内在的原因であり、超越的原因ではないこと。一切が神の中に生き、神の中に動いていること(325)。
# 64: エチカの神に関する問答。人間の実践及び認識の有限性を説くものか。
# 12: 続き。実体=無限(永遠)、知性による認識。様態=「持続」する部分、表象による把握。時間と測定量が表象のための様式にすぎないこと(64)。時間の分割の矛盾についての見解(65)。
# 32: 「万物の連結性」、無限の自然、宇宙における諸部分の連関に関する主張。「宇宙の諸部分は、この無限な力の本性によって無限の仕方で規定され、かつ、無限の変化を受けなければならない」(172)。人間の精神も自然の一部であること。「私は、人間の精神をある無限な知性の一部であると主張する」(172-173)。
# 58: 自由意志について。自由とは、自己の本性の必然性のみによって存在し、行動することである。他物から一定の仕方で行動することを決定されていることを、強制されているという(269-270)。<精神の活動を経ずに決定されていることと理解すればよいのだろうか。おそらくスピノザは人における自由の意識の存在のみを必然的なものとして肯定しているのであろう。次の文章を参照>。有限な物のうちに宿る自由の意識について。「すべての人は自由を持つことを誇るが、この自由は、単に、人々が自分の欲求は意識しているが、自分をそれへと決定する諸原因は知らない、ということにすぎない」。<自由の意識のみを肯定するということか>。271には、必然的であることが自由ではないということであるならば、自由ではないとの趣旨の記述もある。この# 58は、いわゆる自由意志論に対する見事な反論となっている。
# 83等: 存在の属性は、延長のみではなく、多様であることが述べられているが、訳者が指摘するように、個々の事物の認識に関する十分な考察は見当たらない。すなわち、神とは、その本質に存在が属する実有であるとの定義によって、事物の多様性が導かれることを示唆するが、詳論は後日を期するとの記述がある(352)。
アイザック・ドイッチャー 非ユダヤ的ユダヤ人
August 5, 2019;アイザック・ドイッチャー;非ユダヤ的ユダヤ人;
ドイッチャー(1907-1967)は、ポーランドにユダヤ人として生まれ、ラビとなる教育を受けた後、無神論者・マルクス主義者に転じて、ポーランド共産党に入党したが、1931年、除名された。反スターリン主義の運動を党内で展開し、かつ、社会民主主義とナチズムを同様に敵として闘う方針に反対したためであるという。本書には妻による略伝が付され、ドイッチャーによる自らの出自を踏まえたユダヤ人問題に関する論評が収められている。
ドイッチャーによれば、ユダヤ人は、自らとは異なる、そして自分たちを敵視する異世界の中で、孤立して生きることを余儀なくされた。それが、逆に境界を超越する数々の思想家を生んだ(35)。スピノザ、ハイネ、マルクス、フロイト、トロツキー、ローザ・ルクセンブルク、これらはその代表者である。スピノザは、普遍的な神と、選民としてのユダヤ人という矛盾を、前者を選ぶことによって解決し、それゆえにユダヤ人社会から追われた。これらのユダヤ人思想家に共通するのは、決定論であり、思想の実践における役割の重視であるという(46,47)。
ホロコーストに関しては、ユダヤ人が財の交換と金融に携わってきたことが非ユダヤ人の間における憎悪を生んだといい、ユダヤ人問題の解決は社会主義と国際主義の実現の中にのみあるという(64)。スターリンの反ユダヤ主義の原因は、一国社会主義と一党独裁に求められている。
マルクスのユダヤ人問題に関する論文を全面的に肯定し、ユダヤ人は非ユダヤ人の自然経済に対して資本主義的なものを代表したゆえに、その悪を自ら体現し、恨みを買ったと論じ(50,63)、国際的社会主義にその解決を求めるのである。しかし、今となっては、その主張は見果てぬ夢というしかない。
なお、西欧のユダヤ人と東欧のユダヤ人が階級構成において大きく異なること、すなわち、前者が富裕な金融資本家等であり、後者が職人的労働者等であることを指摘している点が興味深い。翻訳は鈴木一郎。
追記:ドイッチャー自身の書いた最初の3章を再読する。社会主義の実現が階級対立を終わらせ、これによって、ユダヤ人問題も解決されるとの思想が一貫していることを確認する。ナチズムは、共産主義革命に対する残虐な抵抗であり、これによって社会主義の実現が妨げられ、そのためにユダヤ人問題が存続せざるを得なかった、終わるはずであった資本主義が生き残り、シオニズム国家すらが生まれた、これらの幻想的で痛ましい歴史認識が随所に表明されている。人は信じたいことを信じるのか。上記のように決定論を高く評価する著者でさえも。
スピノザの著作の翻訳者、畠中尚志氏について
別ノート「古典と古典語」を参照。
なお、最近、畠中尚志全文集が出版されたことを知った。