三浦つとむ Tsutomu Miura
三浦つとむ 三浦つとむ意志論集 Tsutomu Miure, On the Human Will
March 13, 2021 ;
三浦つとむ、津田道夫編集・解題;
三浦つとむ意志論集―20世紀マルクス主義が欠落させたもの―;
三浦つとむが 1960年代から70年代にかけて思想、現状分析、試行に掲載した論文を集めたもの。
「俗流唯物論」では、人間の頭脳活動を含む主体的活動が疎外され、対象化されることを正しく捉えられないこと(疎外はすなわち「悪」ではない)、法はこのような対象化された意志であること、この優越的意志(この用語を著者が用いているわけではない。以下の諸用語には同様のものが含まれる)としての規範は、原始共同体の時代から、共同体の共通の利益を保護するために、人間社会に不可欠のものとして存続してきたこと、国家の生成(それは社会の階級への分裂に先立つ)とともに、法規範は、優越的な国家意志として国家機関の強制力によって支えられること、そして、階級社会の出現とともに、従属階級に対する抑圧の手段としても(共同体の存続発展の手段であることに加えて)機能するに至ること(41-)、これらを主張し、悪法は法ではないとの主張を混乱した考え方として斥ける。
ケルゼンの法実証主義の引用もあり、そこには合理的なものが含まれると言うが、例によって、マルクス主義の見地から、疎外による対象化という過程の分析が欠けていると主張する。ケルゼンは「マルクス主義」の言葉で語らなかった、その点を非難するにすぎないと言うべきであろう。
レーニンの国家と革命については、国家が共同体に不可欠なものであることを見逃し、これを階級支配の観点から一面的に論じる誤りをおかしているという。レーニンを批判してマルクス・エンゲルスを救う、例の議論である。ざっと流し読みした限りでは、法が観念的な実在として現実にどのように存在しているのかについての立ち入った分析はなく、また、法の作用の前提となる決定論についての明示的な論及もない(60-。責任の軽重に関する論述もあるが、理論的な分析はない)。
この点は当時、著者にとっても未解決の問題であったと思われ、しかも、後述のとおり、決定論を批判するに至っている。
なお、到るところでパシュカニースの「法の一般理論とマルクス主義」が引用され、批判されている。注によれば、翻訳書を利用したようである。三浦つとむはどの程度外国語を読んだのであろうか。第2インターナショナルの亡霊と題する論文では、ベルンシュタインについて、弁証法を理解しない俗流唯物論に基づく修正主義であるとの批判を展開しているが、ベルンシュタインの主張を具体的に検討するものではなく、「マルクス主義」の見地から非難のラベルを貼ることに終始している。
結局、著者の方法上の最大の問題は、マルクス・エンゲルスの文献の権威を前提として、これに依存していること、論述が論争的・断片的であり、自らの思想を抽象から具体へ一貫したものとして示していないこと、上記に伴い、政治的・社会的現実の経験的観察から理論を導き出す態度が、断片的なものにとどまり、一貫したものとなっていないこと、これらにより、政治的・社会的現実への言及が、必要な論理的媒介なしに理論と直結され、例証として述べられているにすぎないこと、以上の点にある。
著者が「マルクス主義」の「亡霊」から逃れ、その思考を自ら創出した諸概念によって論じていれば、すばらしい成果が得られたであろう。しかし、著者は、自らは弁証法の神秘化を批判しながら、その「弁証法」による「革命」を信じざるを得なかったのである。
津田道夫の解題は、読むに値しない。マルクス主義文献学者の自己顕示の産物と言うべきであろう。ただし、著者三浦つとむの中国への言及(規範の強制の必要性がなくなっていくことの例証として、遵法精神溢れる当時の中国の現状なるものへの言及がある)に対する批判は、そのとおりである。
著者もまた、中国「社会主義」がふりまく幻想に捕われていたということであろう。ソビエト「社会主義」を批判し、中国「社会主義」を称揚する、確かにこれらの論文の時代には、そのような思潮も有力なものとして存在した。結局、人は、信じたいことを信じる傾向を免れることができない。
なお、滝村隆一の国家論が三浦つとむの国家論に酷似していることも発見した。
認識と言語の理論 言語過程説の展開 三浦つとむのフロイト批判 非決定論 その2
..Date: Mon Nov 03 12:39:56 2003;
三浦つとむ;認識と言語の理論,言語過程説の展開(三浦つとむ選集3);
フロイト批判が,「不可知論」と「決定論」(どうも「偶然性」を必然性との「統一」においてとらえない立場という意味で用いられているようであるが,このような表現を用いているところからみると,三浦の立場は,単純な「自由意思」肯定論としか考えられない。)によったことに起因する謬論という非難に終始している。
夢は,経験に基づく追想,想像,空想によるものであるといい,その法則性を追求すべきであるというかと思うと,それらは,偶然の結合として「簡単に」「単純に」説明できると述べたりする。この部分は,混乱の極みであり,当の三浦自身がいたるところで批判する「哲学者」による「科学」への不当な介入,その一刀両断的単純化としか考えられない。
フロイトは,夢の法則性を,仮説として考えられた意識の構造,しかもその構造は発生的・過程的なものとして構築されている,から説明しようとしているのである。その理論が仮に誤っており,あるいは,誇張・逸脱を含むものであるならば,そのことは,現実における検証によってこそ明らかにされなければならないのだ。不可知論などと言い立てても,その誤りを指摘することにはならない。
三浦の立場によれば,量子の世界における一定の構造の仮定も,「唯物論」と偶然性を正しくとらえた「弁証法」によって「単純に」とらえられることとなるのであろう。
言語理論については,文字が音声と結びついてこれを補完していること,日本語においては漢字への依存が大きいことなどを指摘し,「言語改革」が文字の表音化という誤った方向をとっていることを批判する。言語教育における提唱も実用的な文章の作成と読解の訓練を主張するもののように読め,正しい。
「主体的表現」「客体的表現」等の具体的な理論展開については,現在のところ,興味をもって読めない。後日にする。斜め読みしたところでは,日本語が「原始的」構造を持っていると指摘している点に違和感を覚える。はたしてそうなのか。この著者の書くものは,玉石混交である。ところによっては,引用と批判に終始し,非常に読みにくい。むしろ自説を明快に展開すべきではないのか。自説を支える概念の規定が,他への批判による消極的なものにとどまることがしばしばである。抽象から具体へ,みずから展開したらどうなのだ。
認識と言語の理論 言語過程説の展開 三浦つとむのフロイト批判 非決定論 その1
..Date: Thu Oct 30 10:44:58 2003;
三浦つとむ;
認識と言語の理論,言語過程説の展開(三浦つとむ選集3);
意志の対象化としての規範,その規範が意識の中で「複製」されて作用すること,このような規範は,人間行動を規制するものとして,その外に「相対的に」「独立して」存在すること,したがって,それを行動そのものに解消することはできないこと,これらを主張している。しかし,その対象化の必然性については,分析が不十分である。結局,共同体の存続の要請が規範を生むということなのだろうか。
認識の理論における自己の観念的な二重化などの分析は,すばらしいが,どうしてそうなるのかの分析がない。それは,人の意識の特性であるということなのだろうか。
規範論から、ソシュールのラングとパロールの区別を批判し,言語を規範の面からのみ,すなわちラングの面からのみとらえているという。しかし,この批判の妥当性は疑問である。ラングとパロールの区別そのものが規範とそれによって規制された言語活動の区別にほかならないのではないか。そして,ソシュールによるラングの構造の解明は,その構造がその発生に規定されていることを前提とした,論理的・歴史的方法によるものではないのか。言語はむしろパロールであり,ラングはその規範であって,ソシュールはこれを転倒してとらえているといってみたところで,それが何か意味ある議論なのだろうか。
さらに,規範論においては,そもそも「自由な意志」と「必然」のとらえ方が曖昧である。ヘーゲルの,自由とは必然性の認識であるという言葉を引用して,「自由」と「必然」を対立物の統一としてとらえるというが,その実体は何なのか。他から自由な自律的判断と選択自体を必然性が貫いているという意味なのか。
同じ議論は,パブロフ批判にも当てはまる。バブロフは,意思について必然的決定論をとったといって批判する。偶然と必然は,これまた対立物の統一をなしており,決定論は必ずしも偶然を排除しない,因果性は偶然を許すというのである(不確定性原理をそのように解している。)。この批判も,分かったような分からないような曖昧なものである。パブロフの立場は,意識を貫く法則性が極めて複雑高度なものであるということを前提としてしっかりと把握し,その目で見る必要はあるが,人間の意識活動の法則性を解明しようとするものとして是認できる。
解明しようとしている法則性が機械的で単純なものであるとの批判が繰り広げられているが,法則性の解明も一歩一歩進むのであって,直ちに高度な法則が一挙に解明されるわけではなかろう。
結局,三浦つとむの決定論は,妥協的なあいまいな決定論にとどまっており,パブロフのような科学的探求の役には立たないのである。このような立場は,おそらく三浦が自己の二重化等,いわば認識の構造を「実体論」的に解明する一方,その因果的な,発生的な分析を行っていないことと無縁ではなかろう。その意味で,認識至上主義,そこに与えられた人の認識の至上性という立場に,知らず知らずのうちに,容易に移行し得るのである。これがパブロフ的決定論に対する非難に結びつくのではなかろうか。
同じことは,フロイト批判にも言える。フロイトが人の欲求と認識をその生存と繁殖の条件から発生論的に分析し,系統的発生の成長過程における反復という観点から研究している(私見による解釈)のに対し,これを理解せず,やれ不可知論であるとか,やれ実在の認識が夢で繰り返されるとか,まさに「哲学」の名における個別科学の批判(これを三浦は最もきらっていたはずなのであるが)に終始しているのである。
認識は,ロックの白紙説的な観点から単純にとらえられ,頭脳の構造と欲求・認識の構造との連関が見失われ,それゆえ,後者の構造が前者の構造に逆に移行し,その意味で両構造が相互に「浸透」していること,個体の発展が類としての発展として固定され,「進化」が起こること,(したがってチョムスキーの言語能力論やフロイトの無意識の構造的分析が一見不思議に見えて,実は不思議ではないこと)を見落としているとしか思えないのである。