芥川龍之介(1892-1927)とロシア革命
February 29, 2024 ; 芥川龍之介;
ちくま文庫版芥川龍之介全集8;
侏儒の言葉にもレニン、ソヴィエットを風刺する言葉があるが、この巻には、「レニン」すなわちレーニンに関する詩が収められている。
レーニンが東洋的専制の下での源頼家にも比すべき立場にあったこと、レーニンの残虐性、これらを詠うものと感じられる。以下、関係部分を摘記する。
レニン第一/君は僕等東洋人の一人だ/君は源の頼朝の息子だ。/
レニン第二/君は恐らくは知らずにゐるだろう、/君がミイラになったことを?/君は恐らくあきらめたであらう、/兎に角あらゆるミイラの中でも正直なミイラになったことを?/註 レニンの死体はミイラとなれり。/
レニン第三/誰よりも民衆を愛した君は/誰よりも民衆を軽蔑した君だ。/
February 29, 2024 ; 芥川龍之介;
ちくま文庫版芥川龍之介全集7,8;
これらを拾い読みして、芥川の文学論を読む。芥川は冷静なリアリストである。
プロレタリア文学がブルジョアを悪として、プロレタリアを善として描くものであれば、それに反対するという。
文学は、表現内容と、表現の形式をなす、言葉と響きと形(特に漢字において)によって、すなわち内容と形式、不即不離にある両者の総合によって、「詩的精神」を表現し、そのようなものとして文学的な価値を有する。その内容は自由であり、私小説であれ、人生観の表出であれ、また、社会主義の宣伝、その下僕であれ、詩的精神の表現があれば、文学としての価値がある。
この見地から中野重治の詩情を高く評価する。志賀直哉については、その微細な絵画的表現を取り上げている。
しかし、この「詩的精神」の内容については、詳細が論じられていない。その過剰がセンチメンタリズムを招くことへの警戒はある。文芸的な、余りに文芸的な、12は、詩的精神について比較的詳しく論じているが、「最も広い意味の抒情詩」と言うのみである。
なお、マンハイムのいわゆる水平的ユートピアとも評価できる、西洋の文芸を盲目的に崇敬する風潮には、批判的であり、日本に「私小説」ではない「本格的」な小説がないとの議論に対しては、源氏物語等の存在を挙げて反論している。
349:代作の弁護。古代の画家が代作をさせるために弟子に技巧上の秘密を惜しみなく伝えた、それによって技巧が継承されたとの、サミュエル・バトラーの言を紹介し、賛同する。私見と全く同じである。バトラーを引用すれば、私見も少しは注目されるであろう。
芥川龍之介の文学論の豊かさを初めて知る。それは「敗北の文学」ではあるまい。あえて敗北の言葉を用いるとすれば、芥川は人々の敗北を見、また、その敗北を見通したのである。必要だったのは、生物学的生を生き通すための、「不条理」を耐える、あるいは、それを見ないで過ごす、そのような「強靭さ」である。確かにそれを持ち合わせた人物が敗北の文学を論じることができた。その人物は不条理にも生きながらえた。
このことは、侏儒の言葉を見れば明らかであろう。それは、次のとおりである。我我は如何なる場合にも、我我の利益を擁護せぬものに「清き一票」を投ずる筈はずはない。この「我我の利益」の代りに「天下の利益」を置き換えるのは全共和制度の譃である。この譃だけはソヴィエットの治下にも消滅せぬものと思わなければならぬ。/わたしの最も驚いたのはレニンの余りに当り前の英雄だったことである。/
芥川の文学論を研究し、批判的に再構築する、そういう論文はあるのだろうか。芥川の言う「詩的精神」とは何か。それが問題である。
プロレタリア文学の意義が何であれ、それはもう存在しない。プロレタリアなる言葉に縛られるほど、文学は従順ではなく、プロレタリアなる言葉の内実を見ないほど、文学は盲目ではない。