“Six Weeks in Russia in 1919” by Arthur Ransome
― 1919年のロシア
(別投稿「歴史」との遭遇 の一部は、この投稿に基づいています。)
2022年2月、ロシアはウクライナへの侵略戦争を開始した。1917年のロシア革命は、その歴史の円環を閉じた。
Six Weeks in Russia in 1919
本作品の表題 Six Weeks in Russia in 1919
著者 アーサー・ランサム
出版社等 George Allen & Unwil LTD.により1919年6月ロンドンにおいて出版され、その年の7月には早くも第2刷が出された。マイクロソフト・コーポレーションの援助を得てThe Internet Archiveにより2007年にデジタル化され、インターネット上で公開されている(https://archive.org/details/sixweeksinrussia00ransuoft)。公開されているもののうちではPDF版が最も正確であり、読みやすい。
アーサー・ランサム
著者アーサー・ランサム(Arthur Ransome、1884年‐1967年)は、『ツバメ号とアマゾン号』シリーズで世界的に広く知られる作家であり、我が国においてもこれらの少年少女向けの作品を集めた『アーサー・ランサム全集』(神宮輝夫ほか訳、岩波書店、1967年)が出版されている。
しかし、ランサムがこれらの少年少女向けの文学シリーズを書いたのは40代後半に至ってからであり、それまで、エッセイや文学評論を手がけるほか、ジャーナリストとして、ロシア、エジプト、中国等に赴き、その見聞を基にして記事やルポルタージュ作品を書いていたことはあまり知られていない。
『アーサー・ランサム自伝』(神宮輝夫訳、白水社、1984年。原著は1976年)には、この時代のことが比較的詳細に記されており、当時の思い出とともに、スターリンによる大粛清を経て、ランサムの知り合いのボリシェヴィキが次々と処刑されていったこと、革命の歴史がこうして書き換えられたことが,ランサム個人の感慨とともに指摘されている。本書についても言及があるが、その内容は省略されており、これと重複するような回想も述べられていない。なお、ランサムは、本書に描かれた期間を含めて、長期にわたってロシアに滞在しており、その二人目の,そして,終生の妻は、このような滞在の際に知り合ったトロツキーの秘書である。
自伝によると、ランサムはイギリス外務省やロンドン警視庁の幹部と連絡があり、本書に描かれたロシア行もこれらとの緊密な連絡の上でなされたもののようである。一方、ランサムは、列強によるロシア革命に対する干渉戦争に一貫して反対しており、それゆえに、レーニンを始めとするボリシェヴィキ幹部から信頼を得ていたと考えられる。自伝にも、レーニンらが本書を評価していたことが記されている。それによると、ラデックがボリシェヴィキの群像が生き生きと描かれていると本書を高く評価し、それを聞いてレーニンも評価を変えたという。
また、ヒュー・ブローガンの『アーサー・ランサムの生涯』(神宮輝夫訳、筑摩書房、1994年)には、本書の出版経緯及び内容についての比較的詳細な記述がある(pp.290-296等)。それによると、ランサムはタイピストに口述して急いで本書を書き上げ、1919年6月12日に出版した。膨大な数が売れ、大成功を収めたという。ブローガンは、その理由にとして、反ボリシェヴィズムの偏見や歪曲がない冷静な観察の記録であったこと、ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』(岩波文庫、1957年)と比較すると、劇的な要素には欠けるが、レーニン等のボリシェヴィキ指導者をリードのように英雄的に描くことなく、ランサムが感じ取ったままを率直に伝えていることを挙げている。ブローガン自身も本書を高く評価し、「貴重な歴史の証言である」と述べるが(p.295)、ランサムのレーニンの描写については、感傷的にすぎ、権謀術数をめぐらす老練かつ冷酷な革命家としての 側面を見落としていると論じている(p.293)。なお、ブローガンは、本書の批評のため、その一部を引用しているが、もとよりそれによって本書の全体像が理解できるようなものではない。
ちなみに、カミングに率いられる1916年から1921年にかけてのSIS(イギリス情報部)の活動を描く、ジャイルズ・ミルトン(Giles Milton)の『レーニン対イギリス情報部』(築地誠子訳、原書房、2016年)は、ランサムをイギリス情報部の協力者であったと指摘し、その一方でランサムがボリシェヴィキの同調者であるとの見方が存在したとも述べている。おそらく、ランサムが列強の干渉戦争に対して一貫して反対し、イギリス政府の要路にもその旨進言していたことから(自伝にその旨の記述がある)、このような評価がなされているのであろう。しかし、自伝や本書を読む限り、ランサムは自由で客観的な観察者の立場を貫いており、特定の政治的立場への忠誠は全く感じられない。
作品の背景と登場人物
本作品の背景
上記自伝によると、ランサムは1913年6月に初めてサンクト・ペテルブルクを短期間訪れた。その後、1914年5月から再びペテルブルクに滞在して、『サンクト・ペテルブルク案内』を執筆し(同書はその後の戦争及び革命のために出版されなかった)、その間、第1次世界大戦が迫る中で労働者のストライキ、戦争支持のデモンストレーション等によって騒然とするロシアを目撃した。その後一時ロンドンに戻ったが、知合いの外務次官に勧められ、再びジャーナリストとしてロシアに入り、ロシア革命に遭遇し、記事を送った。
本書は、1918年8月にロシアを離れた後、およそ6か月の間を置いて、1919年1月に再びロシアに入り、約6週間にわたる滞在の間の見聞をまとめたものである。
本作品に登場する主な歴史上の人物
リトヴィノフ: ボリシェヴィキ、外交官、後に外務人民委員
ラデック: ボリシェヴィキ、ドイツ共産党の創立等を指導、後に粛清され、別の囚人により殺害される
ジノヴィエフ: ボリシェヴィキ、10月革命に反対、後に粛清され、処刑される
カーメネフ: ボリシェヴィキ、10月革命に反対、後に粛清され、処刑される
ブハーリン: ボリシェヴィキ、党内第一の理論家、後に粛清され、処刑される
ジェルジンスキー: ボリシェヴィキ、ボーランド貴族出身の革命家、諜報・秘密警察の指導者
トロツキー: ボリシェヴィキ、レーニンとともに10月革命を主導、ロシア赤軍の指揮者として軍事的才能を発揮、後に粛清され、亡命。亡命先のメキシコで、スターリンの指示を受けた暗殺者に殺害される
レーニン: ボリシェヴィキの指導者、労働者・兵士ソビエトによる権力奪取を追求、10月革命を強力に指導
マルトフ: メンシェヴィキの指導者・理論家、社会民主主義者、当時のロシアにおける社会主義の実現の可能性に一貫して否定的
要約
飢え、こごえるロシア
1919年1月末、ランサムはノルウェー及びスウェーデンのジャーナリストともにストックホルムを出発し、ロシアに向かった。スウェーデンとの外交関係の断絶に伴って帰国する、リトヴィノフを始めとするソビエト外交官が同行した。ランサムは数か月前にもロシア入国許可を得ようとしたが、ロシア国内に反対の声があり、実現しなかった。しかし、イギリスの外交官であり、情報部員であるロックハートが既に6か月もロシアから離れているランサムにはロシアについて発言する資格がないと述べたことにより(ランサムの干渉戦争反対の立場を意識した発言であると思われる)、急遽ボリシェヴィキの許可が得られたのだったF。
フィンランド経由よるロシアへの旅は、セメノフスキー連隊のソビエト政府への反乱の噂(後に全く根拠のない噂話にすぎなかったことが判明する)などによって遅れるが、厳寒の中、ペトログラードのフィンランド駅に到着し、 ホテルにたどりつく。その後、ランサムはモスクワに移る。
ロシアは、内戦と列強の包囲の中で、飢え、こごえていた。ホテルすら暖房が止まっており、ランサムは少しでも暖かい部屋を求め、キッチンの隣で多少の暖気がある部屋をようやく確保する。食事は1日一度の配給食があるだけであり、それ以外は、闇市場に頼らなければならない。電力ももちろん不足しており、街中が暗い。水道管は暖房が十分でないため、そこかしこで破裂している。ランサム自身も飢えをこらえながら、観察し、インタビューする。
だれもが物資運輸の不備を指摘する。食料も燃料も運ばれてこない。工場の多くは原料の不足のために操業を停止している。
革命の日常化
しかし、1918年に比べれば、政治社会状況は安定し、武装兵の姿も少なく、また、夜間でも人通りがある。人々は劇場にも行き、「サムソンとデリラ」やチェーホフの「ワーニャ伯父さん」などの演目を見る。だれもが飢えと寒さと闘っているが、ボリシェヴィキの政権があと何週間持つのかといった疑問は既に消えている。その一方、革命の熱狂も消え、ソビエトの会合にかつて見られた多数の傍聴者の姿は、今やほとんどなくなっている。
それでも自由はまだわずかに残っている。1918年8月の反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)ペトログラード議長ウリツキーの暗殺とレーニンに対する暗殺未遂の後の赤色テロルによって、ますます活動の余地が狭まったとはいえ、まだ、社会革命党やメンシェヴィキが声を上げる余地は残っていた。そして、政治情勢がやや安定するとともに、上記非常委員会の権限も、その長ジェルジンスキーの賛同を得て縮小され、裁判なしの処刑権限がなくなり、革命法廷にゆだねられることとなった。社会革命党の政治犯も一部釈放された。ランサムが滞在するホテルのメイドも、飢えてはいるが自由があると述べるのだった。
ヨーロッパ革命への渇望、ユートピアの喪失
モスクワにはイギリス人捕虜がいて、比較的自由な処遇を与えられ、街の中を護衛なしに歩くこともできる。しかし、捕虜管理の責任者もこの捕虜たちをボリシェヴィキにすることはあきらめている。イギリスではロシアにおけるような革命は起きない、これはランサムの確信であり、ことあるごとにボリシェヴィキ幹部に伝えるのだが、彼らは信用せず、近い将来におけるイギリスを含むヨーロッパ革命を待望し、信じている。
理論家のブハーリンは、50年の間にはヨーロッパ全域の社会主義革命が成就すると豪語する。ランサムの反論もその確信の前には虚しい。
チチェリンの列強及び白軍との間における妥協的な平和協議提案が発表され、全ロシア執行委員会で討議されている。結局、その提案は支持されるのであるが、ランサムは、発言者の一人ひとりの発言内容と特徴を記録し、伝えている。チチェリン、リトヴィノフ、ブハーリン、カーメネフなどが登場する。革命のユートピアへの熱狂はもはやなく、ロシアは資本主義国との取引を迫られていた。そんな議論がなされている会議場の中を、ユダヤ系ロシア・イタリア人革命家アンジェリカ・バラバノヴァがユートピアの喪失に耐えかねた様子で悄然と歩きまわるのだった。
その一方、ラデックの妻は、ランサムの側に来て、トロツキー夫人がラデックらの住居が自分たちのものよりよいことを妬んだ結果、転居を余儀なくされたと不満を漏らす。
経済社会の実情と実務家たち
このような状況の中で、ロシアの再建に奮闘する者たちがいる。国家建設委員会議長のパブロヴィッチは、鉄道等の建設に携わっている。内戦での勝利がすべてに優先し、また、資材も不足しているために、建設は遅々として進まないが、それでも運河、鉄道、道路等の建設は進みつつある。寒さのために、同僚は次々と倒れ、彼自身の片方の手もこごえて麻痺してしまっている。 同僚の中には、ランサムの知合いの、かつてボリシェヴィキ反対を唱えていた者もいる。
ランサムは、次々と政府各部を訪問し、実情を尋ねる。公共経済最高評議会、財務委員部、繊維産業中央局、外国貿易及び武器委員部、農業委員部、労働委員部、教育委員部など。これらの各部門では、10月革命反対派(ボリシェヴィキ内にもジノヴィエフを始めとして10月革命に反対した者が少なくなかった)も、メンシェヴィキも、革命前からの技術者・専門家も、ボリシェヴィキとともに、寒さと飢えの中で、生産と輸送、資金の調達、教育、労働者保護等のために、働いている。大学の数は増え、教育は無料であり、ロシア文学の古典やレーニンと対立したプレハーノフの全集まで、紙不足の中で各種の書籍が印刷されている。このような一種ユートピア的な光景が存在する一方で、農民の集団化は困難であること、工場を労働者の管理にゆだねることは弊害が大きいことなどが理解されつつある。工場は国家のものであり、そこに働く労働者の管理にゆだねるべきものではないと担当者が述べる。ボリシェヴィキ反対派は、国家資本主義の登場を指摘し、スピリドノヴァの率いる社会革命党左派は、革命前からの技術者・専門家の登用にも反対する。
レーニンへのインタビュー
レーニンはよく笑い、著者の反対にもかかわらず、イギリス革命の到来を確信している。労働者階級のストライキはソビエト(評議会)を生み、評議会は必然的に階級的権力機関に成長する。著者によれば、レーニンには個人的野心は全く感じられない。レーニンは歴史的必然的な大衆の運動を体現しているのであり、かつ、体現しているだけなのである。
著者は、第三インターナショナルの創設後にもインタビューを行い、イギリス革命の可能性について深く議論するが、レーニンの立場は変わらない。農民が集団化を望んでいないことについても、農民の間にも貧農と富農の階級的対立があることを指摘して反論するのみである。
ボリシェヴィキに対する反対派
著者は社会革命党右派のヴォルスキー、メンシェヴィキのマルトフらに意見を求める。
社会革命党左派のスピリドノヴァにもインタビューしようとするが、その直前に彼女が逮捕されてしまう。それでも、彼女は処刑されず、精神病院に幽閉されただけである。
マルトフらは、一様に、ソビエトの権力なるものがボリシェヴィキの独裁に他ならないことを指摘するが、飢えと寒さを耐える大衆を扇動してボリシェヴィキ政権を転覆することには反対する。それが成功しても、ボリシェヴィキの後には極端に反動的な政権が生まれるだけであろう。ロシアは社会主義を実現できるような状態にはなく、農民は社会主義を望んではいない。マルトフらは、ボリシェヴィキ政権はこのような状況に直面する中で、政権を維持しようとすれば、必然的にその政策を変えざるを得ないと主張するのである。
ベルン会議視察団派遣の提案と第三インターナショナルの創設
社会民主主義者たちのベルン会議は、ロシアに視察団を派遣することを計画した。チチェリンは受け入れようとするが、リトヴィノフらが強硬に反対する。カウツキーらは決してロシアの現状を好意的には見ないであろうというのがその理由である。著者は、第三インターナショナルの創設がこの視察団の受入拒否を正当化するために急いでなされたと推測している。
第三インターナショナルの創設は秘密裏に進められた。著者はブハーリンからヒントを与えられて、これを知り、当初の非公開のときからその会議を傍聴することに成功する。各国の共産主義者が集まり、歴史的な会議が興奮の中で進められる。軍国主義反対の先鋒であったトロツキーが赤軍の服装で現れて演説する。ドイツ・スパルタクス団のアルブレヒト一人が時期尚早とその創設に反対するが、人々の熱狂の中で第三インターナショナルの創設が宣言され、インターナショナルが合唱される。
こうして、著者はロシア滞在を終え、帰路につく。非ボリシェヴィキでクロポトキン崇拝者であるペトログラード軍司令官と列車を共にする。彼はソビエト政権のために献身的に働く一方で、ソビエト政権を攻撃する者がだれもいなくなったら、自分が最初にそれを倒してやると豪語している。著者がソビエト政権はどのくらいもつのかと尋ねると、彼は「我々は革命のためにあと1年は何とか飢えに耐えることができるだろうね」と答えるのだった。
中平亮 赤色露国の一年
February 18, 2024 ;
中平亮(1894-1981);
赤色露国の一年;
1919年5月から1920年8月のロシア滞在記。1921年1月15日に発行されている。著者は、大阪朝日新聞から派遣されて、1919年1月から1920年8月までロシアに滞在し、「革命」の現実を記録した。
ロシア10月革命がレーニンの「理想」による「性急」な変革を目指すものであり、これによって登場したボリシェヴィキの専制の下で労働者・農民さえもが苦しみ、飢えている現状を描く。
レーニンとの会見も記録されているが、見るべきものはない。
レーニンとトロツキーが、前者が慈悲と理想あふれる指導者、後者が過酷な政策の唱導・実行者と、それぞれ評価されていることを指摘し、実際にはそうではなく、レーニンは必要な実務をトロツキーにゆだねているのみであると論じている。レーニンの残忍性をも指摘する。
内戦の終結が早く到来しなければ、1920年から21年にかけての冬の窮状により労働者・農民の反抗が激化してボリシェヴィキ政権が倒れることを予測している。しかし、著者の想定よりはやや遅かったが、内戦が終結し、政権は一息つくことができた。また、新経済政策への転換があった。
歴史のその後の過程は、著者の予想どおりには必ずしもならなかったが、1921年、クロンシュタットの反乱が起き、それと時期を同じくして新経済政策が導入された。この予測は当時としてはおそろしいまでに正確である。
さらに、著者は、指令経済が産業発展の妨げになっていると明言はしないが、産業発展の将来についても正しく悲観的である。
著者は、大阪朝日新聞社所属のジャーナリストである。
なお、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの対立の詳細を論じる部分は、検閲により削除されている。革命の現実ではなく、革命の理論が危険視された、ということであろうか。
1919年前後のロシア革命関連年表
ロシア革命の経過(リチャード・パイプス『ロシア革命史』による)
1917年3月: ロシア2月革命。皇帝ニコライ2世退位。
1917年4月: レーニン帰国。ソヴィエトによる権力奪取を呼びかける。
1917年11月: ロシア10月革命。ボリシェヴィキの独裁。「戦時共産主義」と内戦の始まり。
1918年7月: ニコライ2世及びその家族全員と従者・侍医が殺害される。
1918年8月: 社会革命党員ファニィ・カプランによるレーニン銃撃、レーニン重傷を負う。その後の「赤色テロル」によりおよそ5万から14万人が殺害された。
1920-21年: 戦時共産主義による農産物の徴発等により飢餓が深刻化。1922年までにおよそ510万人が飢餓あるいはこれによる疾病により死亡した。
1921年3月: クロンシュタット水兵の反乱。
1921年3月: 市場経済を一部取り入れた新経済政策(NEP)を開始。
1918年-22年: 第1次世界大戦連合国(日本を含む)のシベリアへの共同出兵。日本は、1918年8月から22年10月まで7万人を超える将兵を派遣してシベリア東部各地を占領して、反ボルシェヴィキ軍を支援し、勢力圏の構築を企図。戦費は約10億円。戦死者は約3500人(世界大百科事典)。