シグムント・ステイン スペイン内戦と国際旅団
2025.05.29; シグムント・ステイン、Sygmunt Stein; スペイン内戦と国際旅団;
著者は、ポーランド出身のユダヤ人(レンベルクで育つ。1899-1968)であり、ガリツィア東部(現ウクライナ)で共産主義組織であるユダヤ労働者党を指導したが、弾圧によりチェコに亡命し、プラハで「ゲゼルド」を指導した。1936年のカーメネフ及びジノヴィエフの処刑に衝撃を受けて、スターリニズムへの疑念を断つことができず、スペイン内戦におけるファシズムとの戦いに命をかける決意をする。パリを経由してスペインに入り、アルバセテを拠点とする国際旅団に入り、前線での戦闘を希望するが、情報宣伝活動を命じられる。
本書は、その活動、癌の疑いがあった腸の病気によるフランスでの入院生活、その後、1938年はじめの国際旅団への復帰とポーランドのユダヤ人部隊であるボトヴィン中隊の絶望的な戦闘と敗北を回想して記すものである。スペインからの帰還後間もなく回想録を執筆したが、第2次大戦によりこれを失い、1950年代半ばに書き直した。1961年イディシュ語版が出版され、2012年にフランス語版が出版された。翻訳は辻由美による。正確な翻訳と思われ、読みやすい。
内容は、衝撃的である。国際旅団は、ソビエトロシアから来たスターリニストに支配され、これに従順でない者は容赦なく処刑され、暗殺される。前線に送って射殺し、戦死を装う方法もとられた。政治委員や将校は、贅沢な酒と料理で乱痴気騒ぎを繰り返し、女を侍らせ、犯す。支援食料や医薬品は横領される。ロシアから送られた武器は、一時代前の使い物にならないものであり、缶詰は黴の生えた不良品である。将校は威張り散らし、かつての知り合いでさえも、離れて敬礼しなければならない。また、ロシアは武器支援に対価を要求した。
カタロニアのPOUM(統一マルクス主義労働者党)については、ボルケナウ『スペインの戦場』とは異なり、トロツキストだけでなく、無政府主義者や左派社会民主主義者も参加しており、民衆の支持を得ていたという(163 f)。1937年5月、POUMは挑発者によってバリケード戦に導かれ、スターリニストによって壊滅させられた。著者は、当時バルセロナにいたわけではないが、その挑発を組織した者の自慢話を記録している。著者は、入院のためバルセロナを経由してフランスに入ったが、POUM弾圧後、国際旅団に対する評価が逆転し、民衆が国際旅団に対して強烈な憎悪を向けていたことを記している。
国際旅団は、理想に燃えて志願した知識人や活動家で占められていたわけではなかった。アメリカ人等の多くは、確かにそういう人たちであったが、相当部分を外人部隊経験者やルンペン・プロレタリアート層が占めていた。著者が参加した戦闘は、小火器すらも数が少なかったため、大部分が素手で突撃するという絶望的なものであった。敵から武器を奪い取って使うことが命じられた。なお、国際旅団におけるユダヤ人差別も記録されている。痛ましさが胸に迫る。
おそらくソビエトロシアは既にフランコ軍に勝利することを目指してはいなかった。スペインは、「トロツキスト」ら「内部」の敵をも絶滅する場であった。そして、同時に自らを民主主義の擁護者として宣伝する場であった。スペイン人民を騙すことはできなくとも、世界人民を騙すことはできる。著者は、入院のためパリに赴いた際に、係累の女性が心底このようなプロパガンダを信じ切っていたこと、そして、あまつさえロシアに批判的な著者に軽蔑を示したことを記録している。
ラ・パシオナリアに関する記述も驚くべきものである。著者によれば、ラ・パシオナリアは純真で美しく、その演説は心を打ったが、普通に考えられているような、共産党の有能な指導者ではなかった。彼女は宣伝煽動のための道具として「作られた」のである。
フランツ・ボルケナウ スペインの戦場 スペイン革命実見記
2025.05.21; フランツ・ボルケナウ; スペインの戦場 スペイン革命実見記、The Spanish Cockpit、1937、London;
1936年及び1937年の2回にわたるスペイン取材旅行の記録である。
反乱を契機として、CNT(無政府主義者)を始めとする政治組織がそれぞれ武装して割拠し、貴族、地主、富農、工場経営者、司祭、官吏、弁護士、公証人、将校らを裁判なしに処刑して殺戮し、教会や富裕層の建物を破壊し、財産を収奪した。
小規模ではあれ、分割地農経営の経験がないところでは、土地の分割が行われ得る条件がなく、従来の地主になり代わって、「政治委員会」等のコンミューン組織が農業労働者を雇用した。貨幣を「廃止」し、現物交換を目指したところもある。スペイン内戦において、「共和国」は、内部において分裂し、相互に殺戮を重ねた。共和国は敗れるべくして敗れたというほかない。
航空機及び戦車についてドイツ及びイタリアの支援があったことは確かであるが、従来の将校を殺害し、ほとんど小火器のみで武装した、規律のない軍が勝つはずもなかった。「共産主義者」は、規律を強権的に導入し、その第5連隊及び国際旅団は強力であったが、戦争の帰趨を変えることはできなかった。
訳者、鈴木隆の解説は、「民衆」が無政府主義者によって代表されるかのように記し、「民衆」の革命的・情熱的行動をスターリニストが抑圧したことにより敗北したと言わんばかりである(そのように明言はしない。要するに、徹底的な思考を欠いているのである)。しかし、本書はあくまで実見した具体的事実を丹念に叙述するものであり、その諸事実を総合する限り、上記の結論に至るほかない。
ただし、著者は、マラガ陥落について、民兵軍の、文字通り必死の抵抗を組織すれば、陥落を避けられたであろうと述べ、共産主義者らによる戦争指導を批判している。一種の玉砕戦の勧めであり、直ちに賛同できないが、無秩序な撤退もまた多大の犠牲を伴ったことは事実のようである。
同じ著者の、封建的世界像から市民的世界像へ、の訳者水田洋はこの書を読んでいるのだろうか。読んでいれば、ボルケナウが、「いかんながら」フランクフルト社会研究所の「右派」であり、後年、「しだいに転向ヒステリーをつよめていった」などとは書くことができなかったであろう。この短絡的で単純な思考には驚かざるを得ない。
2025.05.22:
結論の部分は、スペイン内戦の過程と様々な政治勢力についての簡潔で比較的冷静な分析である。ロシアの介入によって革命が失速し、敗北するとの見方を余りにも単純なものとして排斥する。なお、執筆の時点では内戦の帰趨は明らかでなかったが、著者は、フランコにせよ、あるいはロシアに支配された「共和国」にしろ、いずれにしても軍事独裁に終わるだろうと予想している。イギリス市民革命、フランス革命、ロシア革命の例を参照しつつ、民衆の熱狂的な社会革命を目指した行動の時期に続いて、反動に対抗するための集権的独裁的な革命防衛政権が出現し、そして安定に至るとの一般的な革命の過程のうち、革命的防衛政権の役割の一部を共産主義者が推進し、しかも、それは民衆の革命的行動を削ぎ、また、農地の分割による分割地農の創出という課題を遂行して地方人民動員の条件を作り出すことをしなかった。この最後の点については、アナーキストが地方を支配している状況において実現が可能であったとは思われない。農地の分割については、安定した権力と法秩序が不可欠である。
著者は、スペイン人民の受動性について長く論じるが、スペイン人民、特に労働者と下層農民は、社会変革を構想し、実現する能力を欠いていた。言い換えれば、それはスペイン社会の現実的課題とはなっていなかったのである。著者が批判する、共産主義者の言、スペインの課題はブルジョア革命である、あるいは、共和国の防衛が当面の課題である、これらの言は正しい。
著者は、テロリズムについて、階級「敵」の絶滅を目指す、民衆の自然発生的テロリズムと、集権的独裁権力によるテロリズムを区別し、前者に肯定的であるが、賛同できない。スペインの当時の課題は、政治的民主主義の実現であり、そのためには、夢想的で幼稚なテロリズムを抑制し、広範な勢力を味方につける必要があった。しかし、これを実現できる政治勢力はなく、また、現れる条件もなかった。
著者は、POUMに依拠するトロツキストにも批判的であり、人民を組織し、動員することについて、その能力も、それへの関心も持っていなかったという。本書の序は、1937年4月9日の日付が付されている。POUMに対する弾圧は、1937年5月である。国際旅団に対する評価は、この弾圧を機に逆転した(シグムント・ステイン、スペイン内戦と国際旅団)。著者の共産主義者の負の役割に対する認識は、あるいは少なくともこれに関する本書の論述は、ステイン著に比べると不十分なものである。
Burnett Bolloten スペイン革命 全歴史
..Date: Tue Sep 23 21:24:41 2008;Burnett Bolloten;スペイン革命 全歴史;
スペインにおける1936年の社会革命―無政府主義者による(極端な)生産の共同化と反カソリック運動は,統治機構の崩壊と無力化を招いた。その中で,スペイン共産党が―したがって,コミンテルンが,ソビエトが―軍事・警察機構を掌握した(他の組織は,このための一貫した努力をしなかった。その空白を共産党が利用した。)。NKVDやソビエト顧問は,植民地におけると同様の権力を得,これに反発したカバイェロは,更迭され,ネグリンがその後に据えられた。カタロニアにおけるCNT-FAIとPOUMの弾圧も共産党により決定され,指導された。
共産党は,強力な軍の建設と自由主義諸国の支援を何よりも重要視し,「行き過ぎた」社会革命に対立する。そのため,むしろ軍の将校や中産階級出身者が多数入党するほどであった。著者は,これが「革命の隠蔽」であり,ソビエト及び共産党による革命の阻止であると主張するようである。しかし,著者は,英仏がドイツを東方に向かわせる政策を一貫して追求していたこと,したがって,英仏がスペイン革命を支援する可能性は低かったことを他方で主張しており,これによれば,いずれにせよ,スペイン革命がフランコ将軍に「勝利」する可能性は低かったことにならざるを得ない。
スターリンのソビエトは,この間,一貫して,スペイン内戦をきっかけに英仏と独を戦争に導くことを目指したという。一方,ソビエトは,できる限り国際的非難や反発を招かないよう,隠された方法によりつつ,スペイン内戦に深く関与した。これを見ると,ソビエトがスペインの「革命」を見捨てたという議論も,当てはまらないようだ。ドイツ・イタリアの支援という要素を除いて考えてみても,結局,この「スペイン革命」が勝利し,成功する可能性は極めて低かったと言わざるを得ない。それは,「夢想的」な「革命」であり,その発展の中に,「革命」の維持と防衛の要素を欠いていたからである。
翻訳は,渡利三郎。解説はすばらしい。日本語文献を含めた書誌が詳しい。
Antony Beevor;スペイン内戦1936ー1939
..Date: 2014.03.27;140312、アントニー・ビーヴァー,Antony Beevor;スペイン内戦1936ー1939、The Battle for Spain, the Sanish Civil War 1936-1939;
2005年にスペイン語版が、2006年に英語版が出版された。旧ソ連資料をも利用して中立的で客観的な通史を叙述する試みである。共和国軍、反乱軍双方の残虐行為についても客観的な資料から可能な限り公平な判断を下している。
スペインは、大土地所有貴族、それと結びついたカトリック教会の力によって抑えつけられていた。略奪的・商業的な資本は存在したが、近代的な産業資本は発展しなかったということであろう。スペインの貴族的大土地所有の伝統は、利息のみならず、勤労そのものを軽んじる傾向を生んだという。このような状況が共和国派兵士を僧侶や有産者に対する残虐行為に走らせた。
暴力的な秩序の転覆の欲求が国際情勢と結びついた。ソ連の動きについては、その利害打算、スペインの金の獲得、NKVD、オルロフの指揮によるPOUM幹部ニンの殺害、ドイツ軍の協力を得た反乱軍によるもののように見せかけるための偽装工作(283)等が詳しく記されている。クリヴィッキーの書も多く引用されている。
「宣伝戦と知識人」(第21章)では、両者のプロパガンダがいかに事実を誇張歪曲したかが指摘されている。アンドレ・マルローについては大日和見主義者と評価し、ヘミングウェイについては、その共産党賞賛と自己中心的な自由意志論の二面を指摘して、いずれも手厳しい。 詳細な索引がある。スペインでは高い評価を得たという。
クリヴィツキー スターリン時代
..Date: Sat Oct 04 18:14:27 2008;クリヴィツキー(クリヴィッキー);スターリン時代;
1939年に刊行され,著者は,1941年に死亡した(遺書があり,一応自殺と思われるが,スターリンの秘密警察により殺害されたと疑う者もいる。遺書の偽造は容易だったというのが,その根拠である。トレッペルのヒトラーが恐れた男によると,トレッペルは,ゲシュタポに追われ,ジルベールなるカバーの死亡の偽装を行っている。同じような偽装が行われた可能性もないではない。)。
日本語訳は,1962年に出版され,87年に再版された。出版当初から,内容に信憑性がないとの執拗な攻撃を受けた。スターリンの宣伝装置が最大限に働いたのであろう。しかも,著者が亡命した当時のアメリカは,親ソビエト的な雰囲気に覆われており,それを信じる者が多かった。しかし,この書の内容自体から,その真実性が強く推定される。著者が独ソ不可侵条約を予言したことを除いても,その内容は,迫真的であり,真実を知った者のみが語り得るものであるとの印象を強く受ける。
以下,注目すべき点:
p.9,1934年のナチ党の粛清が前年の国会議事堂放火事件を契機とする大弾圧とともに,スターリン粛清のモデルであった。
p.28,パウル・レヴィによる,1921年3月蜂起への反対と,これによる同人の失脚。
p.56,スペインへの隠された介入の戦略。金(きん)と引き換えの武器供与。スターリンの動機は,スターリン政権に同情的な国際世論を維持することの重要性であり,これを通じて,英米世論を好意的にさせ,対ドイツ交渉力を高めようとしたことにあるという。
p.68,オゲペウのスペインにおける反対派弾圧。POUM幹部の殺害。
p.142-144,トゥハチェフスキーとの対立の原因。ポーランド戦役におけるスターリンの失敗。農業集団化による赤軍兵士の士気の衰え,この問題のブリュッヘル元帥による提起。赤軍近代化の要求。ドイツへの接近という外交政策の転換による赤軍の動揺の予想と,これがスターリンの全体主義的権威を危うくするのではないかとの危惧。1937年時点では,ドイツとの交渉が成功することが予想されており,将校の粛清を行っても,対外的な危険はないと考えられたこと。(トレッペルの「ヒトラーが恐れた男」では,もっと,端的に,トゥハチェフスキーがドイツの侵攻を予想し,これへの準備を主張したことによるという。)著者は,ベルジン将軍の下で赤軍情報部に所属し,ヨーロッパにおける諜報活動に従事した後,粛清の危険を察知して,アメリカに亡命した。