ワイマール共和国 The Weimar Republic

ホッブズの市民論(De Cive)では、民主制の欠陥が厳しく指摘されている。それらはまさに今日の問題である。ワイマール共和国の歴史は、既に取り返しがつかない歴史的事実としてその問題を明らかにしている。

ワイマール共和国の歴史については既にアルトゥール・ローゼンベルクの書を紹介して論じている。ここでは、それに加えて、これに関する諸論考を紹介して論じることとする。

ローゼンベルクの著書に関するノートについては、次のリンクを参照のこと。

目次

エーリッヒ・アイク 『ワイマル共和国史』

ナチスの権力掌握までのドイツ史。当時のドイツが直面していた社会経済的課題は,諸階級間の協調によるドイツ資本主義の平和的復興と発展,賠償支払義務の軽減を目指した継続的で一貫した外交であった。ところが,これを担おうとしたブルジョア民主主義政党及びその人材(シュトレーゼマン,ブリューニング,また,ラーテナウ,エルツベルガー。人名あるいは不正確)は,対外的な交渉においてしたやむを得ない妥協を非難され続け,失脚し,暗殺され,あるいは失意のうちに死亡した。一方,共産党は,「社会主義」が現実の課題となっていないのに,ボルシェビキ的暴力的独裁を肯定し,そのために,騒乱と暴力の雰囲気を作り出した。そして,このような騒乱の雰囲気の中で,これに対抗し,しかも,ブルジョア民主主義政党とその人材を声高に非難する右翼諸政党,その頂点に立つナチスが台頭した。社会民主党は,これに対し,階級間の協調による共和制の維持が何よりも重要であるにもかかわらず,野党として諸政策に直接関与せず,これを批判する自由を保持しながら,各局面において,労働者階級の利益を最大化するための行動を採るという態度に終始した。このため,失業保険料率の0.25パーセント値上げに反対して,最後のワイマール連合政権,ミューラー内閣をさえ倒した。社会民主党は,共産党からの攻撃を浴びる中で,労働者の支持をつなぎとめるため,このような態度を捨てることができず,議会において相対多数を占める政党として責任をもって国民的課題に取り組むことがなかった。騒乱と分裂の雰囲気の中で,独裁が求められた。当初,それは,ヒンデンブルクによって,大統領内閣によって,大統領緊急令によって行われ,そして,ナチスにゆだねられた(ヒンデンブルクは,SA,SSの解散問題で,解散派のグレーナー国防相と対立し,次に,プロイセン農業問題で旧来の地主の利益を害するように思われたブリューニング首相と対立して,いずれも,辞任を余儀なくさせ,結局,共和国派の力を決定的に削いだのである。)。

本書は,これらの経過をヒンデンブルク,各首相,各政党等の動きを中心にして叙述する。分からないのは,SA,SS解散をなぜなし得なかったのかである。シュライヒャーの動きが取り上げられているが,つまるところ,国防軍が解散に動かなかったということか。グレーナーが,ナチス党員の国防軍への参加を許したことの誤りを後悔したということだが,国防軍におけるナチスの影響力がそれほどまでに強まっていたということだろうか。ヒンデンブルクが解散に反対した理由は何であろうか。

以下,注目すべき箇所。Ⅰ89:秩序維持のための旧軍勢力利用の必然性。ノスケに対する高い評価。ローザ・ルクセンブルクは,群集によるリンチの犠牲となったという(p。92)。Ⅰ87:マックス・ウェーバーは,レーテに参加し,その公平さ・冷静さに感心したという。民衆は,ロシア革命の複製を決して望んでいなかった。Ⅰ123-124:過大な国民投票的要素(大統領公選及び国民投票制度)が議会主義の安穏な発展を妨げた。なお,大統領の公選は,マックス・ウェーバーが強力に主張したとのことである。Ⅰ210:ドイツ国防軍は,敗戦の責任を講和を受諾した政府の責任にして,生き残り,力を得た。ヒンデンブルクも講和を決意したにもかかわらず。ⅠⅡ:講和により国防軍は10万人に制限された。その結果,国防軍が右翼的将校により支配されるに至った。Ⅱ58:ヒルファーディングの無能と不決断。ⅠⅡ:ラパーロ条約による,ソビエトとの協調。武器等のソビエトにおける秘密製造。共産党は,ソビエトとの関係から,ドイツが英仏と協調することに終始反対の態度を採った。外交政策批判においては,右翼と事実上協調した。Ⅱ:シュトレーゼマン内閣を社会民主党が倒す。その後のシュトレーゼマンの国家人民党への歩み寄り。エーベルトの嘆き。倒閣は,単に8時間労働制を緊急授権の下で制限したことを理由とするもの。シュトレーゼマン,ミューラーの各内閣がこのような労働者の部分的・一局面的利益の維持のために倒された。Ⅱミュンヘン一揆において,ヒトラーに対し,参審員が寛大な判決を望んだ。Ⅱ224:英仏との安全保障条約,ジュネーブ条約(国際連盟の集団的安全保障条約)に対する共産党の反対(ソビエトの利益)。Ⅲ18章:社会民主党は,失業保険料率0.25%の上昇に反対して,ワイマール連合の最後の政権,ミューラー内閣を倒した。Ⅳ23章:パーペン内閣によるプロイセン州クーデター。これになぜ抵抗できなかったのかについては,本書も疑問を呈している。おそらく,SA,SS禁止,プロイセン州クーデターがヒトラー阻止の最後の機会であり,国防軍が共和制支持側について,そのための行動をいとわなければ,ヒトラー独裁を阻止することができたのであろう。国防軍の動向については,記述がないが,重工業界すらナチスに豊富な資金を提供していたのであるから,国防軍内の力関係もナチスに有利だったのだろうと思われる。(ただし,後述参照)Ⅳ274:国防軍の態度について詳しい。p。327と併せて読むと,少なくとも,当時の国防軍総監ハンマーシュタイン将軍は,ナチスに反対であり,国防軍の武力行使も全くあり得ない話ではなかったと思える。しかし,ヒトラー首相任命前夜のクーデターの噂は本書により根拠がないと判断されている。ただし,ハンマーシュタイン将軍がヒンデンブルクにヒトラー首相任命に反対する旨を伝えたことは事実であるという。そのとき,ヒンデンブルクは,ヒトラー任命をあり得ない話として斥けたが,まもなく,パーペン等に説得されて,その決意を固めた。なお,その前,パーペン内閣の崩壊に当たっては,ナチス及び共産党の弾圧行動と東部国境における武力衝突を想定すると,当時の国防軍は対処しえないというのがシュライヒャーが指示した図上演習の結果であり,それが大きな原因となって,パーペンの両党禁止の計画は潰え,パーペン内閣自体も倒れた。なお,国防軍におけるナチス党員の影響力の問題も述べられているが,ナチス弾圧が可能だったのかどうかについての結論は留保されている。p。299:社会民主党は,迫り来るナチスの独裁を阻止することに全力を傾けるという態度を採らす,シュライヒャーへの協力を拒んだ。巻末の解説は,ワイマル共和国の歴史に関する文献を要領よく紹介している。久仁郷繁の訳は,正確である。巻末の歴代内閣表等,入念な作業ぶりには好感が持てる。今後,ドゥーンケ・ドイツ共産党(1933年以降についてのものであるようだ。),プロイセンの社会民主党首相オットー・ブラウンの回顧録等を読む必要がある。

林健太郎 『ワイマール共和国』

1892年の「ドイツにおける社会主義」という論文において,エンゲルスが,フランスがツァーリズムと結んだときには,ドイツの労働者はフランスと戦うと述べたことを指摘し,それまでの経緯に照らせば,戦争に対するドイツ社会民主党の立場がさほど異常なものではなかったことを主張する。これまでの読書によりようやく到達しかけた結論が明確に述べられているではないか。また,エーベルトらの行動がボルシェビキ革命への反動から説明されている。ロシアにおけるような異常な独裁を避けること,これがエーベルトらの行動の根本にあった。エーベルトらは,その当時の社会経済状態から唯一可能な政策を選択した,そのとおりであろう。ルクセンブルクは,ボルシェビズムの独裁に反対しながら,国民議会ではなく労働者兵士評議会の独裁に賛成し,しかも,これを指導するはずの政党の独裁に反対するという矛盾した態度をとったと述べ(ただし,死亡直前の態度ははっきりしないという。),結局彼女は,大衆に対する信仰に殉じ,幻想に生きたという。革命的オプロイテ(現実的に行動する労働者)とスパルタクス団(宣伝する知識人)の対立,ドイツ共産党への冒険主義者の入党などの指摘も興味深い。1月蜂起は,リープクネヒトが大衆の熱狂に幻惑されて,組織の同意なしに,行ったことであるという。オプロイテは反対し,共産党もリープクネヒトに引きずられ,対外的には蜂起を支持したものの,内部的には決してこれを支持してはいなかった。

ワイマール共和国において,1929年以前は,経済が目覚しく復興し,民主的共和国が存続する希望が生まれていた。しかし,29年の恐慌とアメリカ資本の引き上げは,経済に大きな打撃を与え,一方,ヒルファーディングら財政担当者は,ケインズ政策の効果を知らず,単に緊縮財政・増税を提案するのみであった。しかも,社会民主党は,狭い階級的利益の維持に固執するのみであって,民主主義を維持することの意義を高く評価せず,国民的な課題を引き受け,その解決を実現するという意欲を持たなかった。ベルンシュタイン理論が少数派である,理論と実践の乖離著しい社会民主党には,一貫した政策を作り上げて実行する意欲も能力もなかった。それは,「社会化」政策一つをとってみても分かる。政権についた社会民主主義者にとって当時の条件の下で社会化を実行することの愚かさは明らかであったが,他方で,その政策を放棄することは,大衆の支持の大きな部分を失うことを意味した。いわば,彼らは,新たな理論と未来像を提示できないまま,過去の,今や空文句と化した理論に縛られ,自縄自縛の状態にあったというべきであろう。ようやく成立した社会民主党政権を失業保険負担金の引き上げ反対で自ら潰した場面は,著者が社会民主党の当時の状況を伝えるものとして詳しく描くところである。社会民主党員であった法理論家ラートブルフは,後に,社会民主党が民主主義の価値を正当に評価してその維持に力を尽くさなかったことを反省しているという。そのとおりであろう。

このほか,著者は,憲法体制上の欠陥をも指摘する。すなわち,大統領に非常時大権を与えたこと,首相の任命について議会の直接のコントロールを及ぼさなかったことである。ヒンデンブルクという人物の欠陥とも相まって,それはおそるべき結果をもたらした。経済的な危機の中で,一種の超然内閣が組まれ,大統領の非常時大権を濫用した。その最後の帰結がヒトラーの首相への任命であった。著者が更に一貫して指摘するのは,ドイツ国防軍が,ゼークト,後にシュライヒャーの支配下にあって,独立した,かつ,政治的な組織として発展したことである。その実力による秩序維持は,政治の動向を大きく左右した。

極左に目を転じると,共産党の指導者レヴィの末路が印象に残る。レヴィは,極左路線の誤りを指摘し,後にこれと同じ指摘がコミンテルンによってなされたにもかかわらず,先んじて共産党とコミンテルンを批判した(パンフレットにより)ことを理由にレーニンによって批判され,追放されたのである。当時のドイツ共産党には,ドイツの置かれた状況を打開する何の政策もなかった。あるのは,危機に乗じ,大衆を扇動して権力を掌握する決意のみであった。しかし,多くの大衆はこれに幻惑されなかった。ロシア革命の現実が彼らの主張の正当性を大きく損なっていたのであろう。そこにナチスが登場した。本書末に文献目録がある。参考になる。

林健太郎 『バイエルン革命史』

1918-1919のバイエルン革命の過程を丹念にたどる。議会選挙もレーテの構成も,多数派社会民主党が多数を占めた。しかし,議会選挙においては,SPDとUSPDを合わせても過半数には及ばなかった。しかし,このような状況にあったにもかかわらず,アイスナー(ユダヤ人)は,SPDとUSPDの同盟による少数派政権をレーテの権威で補おうとし,レーテに依拠するレヴィーン(共産主義者),レヴィーネ(同),ランダウアー(アナーキスト),ミューザムら(これらの指導者の大部分はユダヤ人である。)は,社会主義政権の樹立を目指した。アイスナーの暗殺により,無政府主義者と共産主義者は,相次いでレーテ政権を宣言するが,中央政府の派遣軍により倒される。多数派社会民主党と民主党(自由主義的ブルジョア政党)の同盟と,階級協調による資本主義の復興・発展こそが当時の社会的経済的課題を解決できたのであろうが,敗戦という特殊な状況の下における,都市知識人・労働者の観念的な急進化が現実的課題を観念の上で跳び越える試みを導いた。そして,その失敗は,ナチスを強めたのである。反ユダヤ主義,反共産主義がバイエルンを中心として全ドイツに広まっていった。(本来バイエルンが特に反ユダヤ主義の強い地方であるというわけではなかったという。)マックス・ウェーバーは,この時期,当初ウィーン大学で,次いでミュンヘン大学で教授職にあり,バイエルン革命の過程を観察し,この間,「社会主義」(ウィーン)「職業としての政治」「職業としての学問」(いずれもミュンヘン)を著した(いずれも講演記録が基になっているようである。)。そして,彼は,民主党に入党している。ドイツ革命とワイマール共和国の過程をたどることこそが先進国における現代政治を考える上で必要である。このことに以前なぜ気がつかなかったのだろう。それにしても,林健太郎は,80歳を越えて,この書を出版していることになる。すばらしい能力である。

コルプ 『ワイマル共和国史』

最近における研究の成果を簡潔にまとめた書。ナチス支持層が従来言われているように中間層に限られているわけではなく,労働者が最多であり,ホワイトカラー,農民等を含んでいたことを統計的・実証的に指摘する。結局,社会階級とその政治的代表が相互に深刻に分裂している状況にあって,これらの階層が,ヒトラーというカリスマをいただいた,国家社会主義という全体が調和すると信じられた解決に引き付けられた,そこに,現在の状況が続く限り得られそうにないドイツ国民の統合を見たということなのだろう。ヒトラー首相の誕生については,ヒンデンブルクらがヒトラーを取り込むことができると信じたことが原因の一つであるという。ヒトラーの台頭については,フーゲンブルクらがヤング案反対キャンペーンにおいてナチスを「利用し,」それが逆にナチスに対する国民各層の信認を高めたことが指摘されている。ドイツ重工業の態度については,あくまで大勢は国家人民党等の既成の右翼勢力を支援していたことを述べた上(したがって,重工業から豊富な資金が提供されたわけではない。),シュライヒャーが予想に反して労働者階級に妥協的な政策を採ろうとしたことに対して反発し,ヒトラー政権を是認する方向に傾いたという。プロイセン・クーデタについては,抵抗はできなかったという結論が一般的なようである。国防軍の動きについても,若干の分析がある。第2部として,各論点について諸研究の概要をまとめている。資料的価値が高い。

ピーター・ゲイ 『ワイマール文化』

光輝いたワイマール文化の通史。これを読むと,30年以上前,ある評論家が「ワイマール時代のモダニズムと退廃の文化により大衆が政治に無関心となった。その中で,ファシズムが力を強めた」旨述べていたことが思い出される。それは,間違いだ。議会は,どこか遠くで非現実的な争いを演じているように思われ,街頭では,ボルシェヴィズムを信じる左翼(大衆の大多数はロシア革命の再現を決して望んでいない。)やこれに対抗する右翼が衝突する。文化は,共和国の崩壊と戦争と死を予測するかのような闇を背景としつつ,それだけに輝かしい光をきらめかせるものになる。その中で,大衆が,特に青年が,さらに特に学生がユダヤに敵を求め,左翼に敵を求め,そしてあらゆる既成のものに敵を求め,「全体性への渇望」にとらわれていった。つまり,ファシズムが大衆の心をとらえたのだ。本書は,ワイマール文化の軌跡を丹念にたどるが,いわゆる知識人の動きに焦点が当てられており,その中に大衆心理の表現あるいは露頭を見るという態度はあるものの,直接に大衆心理の動きを分析するものではない。その意味で,物足りない。

Peter Gay 『ベルンシュタイン』 (原題 The Dilemma of Democratic Socialism)

第1次大戦前のドイツにおける社会主義運動の歴史研究が奇妙に欠けていることを指摘する。Dilemmaは,民主主義的方法で民主主義的社会主義を実現することを目的に運動を進めた場合,支配層の暴力的抵抗に対する準備が欠けることを意味する。ベルンシュタインは,ユダヤ系のドイツ人であり,1850年に生まれた。高等教育は受けずに,銀行員となり,社会民主主義の影響を受けて,入党し,独学でマルクス主義を学んで,社会主義者鎮圧法の下でスイスに亡命し,理論誌の編集に従事した。その後同様にロンドンに亡命し,そこで理論的研究と論文の執筆に当たった。エンゲルスと親しかったという。マルクスは,1883年死亡,エンゲルスは1895年に死亡したが,エンゲルス死亡後修正主義を明らかにし,戦争中は独立社会民主党に所属し,戦争に反対した(初期には,反動的なロシア帝国に対する防衛戦争として肯定したが,後に反対)。その理論は,第1次世界大戦まで上昇期にあったドイツ資本主義の観察に基づくものであり,絶対的窮乏化の否定(実質賃金は上昇した),中間層の解体の否定,国民中の富裕層の増加の肯定,独占体の発展等に基づく経済調整能力の向上の肯定,螺旋的に深刻化する恐慌の否定,当時における分割地農の経済合理性の肯定等を特徴とする。社会主義は最終目標を持たず,運動がすべてであると述べて,改良主義を肯定した。また,社会主義は,歴史的必然ではなく,目指すべき理想であると位置づけられたという(最終目標を持たないというのは,これを意味するのであろう)。結局,これは,社会主義が当時(そしておそらくは今も)現実的課題とはなっていないこと,それゆえに,社会主義を具体的に構想することができず,したがってまた,最終目標としての社会主義が現に存在しないこと,資本主義はその歴史的使命を終えていなどころか,更に発展しつつあること,これらを率直に認めた理論ということができる。ゲイのいう社会主義運動史の「空白」は,うがって考えれば,これらの事実が明らかになることを恐れる態度に基づくものではないのだろうか。その研究は,ボルシェビズムが社会主義をいかに自称しても,社会主義には属さないこと,それは少数のエリートの空想に基づく革命であり,結局は,崩壊するか,あるいは,社会主義とは似ても似つかない専制的独裁に終わるか,いずれかでしかないことを明らかにするからである。更に,ドイツ「革命」の全過程は,ドイツの労働者が決して-賢明にも-ボルシェビズムを支持しなかったことを明確に示すからである。ピーター・ゲイは,ユダヤ系ドイツ人で,ナチを逃れてアメリカに来た。最後は1993年までエール大学の歴史学教授の地位にあった。本書は,その初期の論述であり,その後,ワイマール文化,歴史学と精神分析などを著している。また,奇しくもそのドイツ名はFrohlichである。以上,Wikipediaによる。

Ian Kershaw 『ヒトラー権力の本質』

歴史における構造と個人のそれぞれの役割を合理的に分析する立場から,ヒトラーの権力の確立・崩壊過程を描く。ワイマール共和国における代表民主制への国民の信頼の崩壊は,国民の間に権威主義的体制による解決(一種のユートピア的解決と言えるのであろう。右翼の主に外交政策に対する絶え間ない批判。左翼の同様の批判。これら両翼の暴力的蜂起。これらによる社会の分裂と混乱。これらが背景にある。)への願望を募らせ,伝統的経済・政治・軍事エリートは,国民の国家への支持をつなぎとめ,必要な統合を維持するためには,ヒトラーを利用するほかないと決断した。一方,ヒトラーは,合理的官僚機構(国防軍も含まれる)の破壊を進め(親衛隊と警察の一体化,国家機関外のナチス機関への権限の付与等。38年には国防軍の有力将軍の多くを追放し,軍を完全に掌握した。),すべての意思決定がヒトラーの権威に発する,カリスマ的で,非合理的な政治・軍事体制を作り上げた。これを著者は伝統的国家機関の「分裂・断片化」と称している。これにより,ヒトラーのイデオロギーに基づく非合理的な政策決定が実質的な抵抗を受けることなく貫徹されることになった。ヒトラーの下で諸個人・集団がそれぞれの利益を追求しつつ,ヒトラーの「理念」の実現における競争に狂奔した。そして,ヒトラーは,カリスマの維持のためにも,自らの妄想的観念に従った「勝利」の連続を追い求め,失敗を重ね,遂には,自らの破壊を求めた(敗戦直前には,ドイツの生産手段を自ら破壊する「ネロ計画」を指示したが,側近がその命令を無視したという。)。これらすべてをナチスの責任にするという戦後ドイツの政策の巧妙さに感心せざるを得ない。本書は,ナチズムについて今まで読んだ書の中で最も説得力がある。同じ著者の他の書も読む必要がある。

須藤博忠 『ドイツ社会主義運動史』

ワイマール共和国の崩壊に関する部分及び結語を読む。ワイマール共和国の崩壊については、共産党の主要打撃論(ナチスとも協力した。これについても詳しい叙述がある)、社会民主党の空論的革命主義と修正主義的な実践の矛盾、これによって生まれた民主的自由の長期的擁護の軽視、待機主義、圧力団体的な短期的利益を目指す行動への傾斜にその責を帰している。そのとおりであろう。ヒルファーディングがケインズ的政策を拒否したことも指摘されている。結局、社会民主党は、早期に修正主義に転換し、それに従った現実的な戦略と戦術を組み立て、大衆を教育・指導すべきであったということになろう。おそらく、エンゲルスはその晩年においてこの方向への転換を始めつつあったとも考えられる。資本主義が長期にわたって続くと予想されるのであれば、その維持を前提として、諸階級の均衡によるその発展と改良を実現する政治的・社会的制度の実現と維持が政治課題となる。そして、戦略と戦術は、この課題に従って決定されなければならなかった。

Katharine chorley K.コーリー 『軍隊と革命の技術』 armies and the art of revolution

左右の革命から自由と民主主義を防衛する,あるいは,左右の革命を成功裡に遂行する,これらいずれにも有用な軍隊に関する技術的観点からの分析が述べられる。すばらしい。名著である。

その結論は,簡単には要約できないが,次のような点が主張される。

1民兵は,正規軍が全力で戦う場合には,これにほとんど勝利できない,正規軍の装備及び組織性と規律は,ほとんど打ち破りがたい,2革命の勝利が可能であったのは,民族主義的反乱(アメリカ独立,また,英軍は海を越えなければならなかった),正規軍将校団の分裂(フランス革命。将校を貴族に限る政策が革命近くに採られた),下士官・兵士と人民の豊富な接触(フランス革命)等の一定の条件が存在する場合に限られている,3軍の政治的立場は,将校団の政治的傾向によって決定される,4下士官・兵士の将校に対する反抗は,通常ほとんど期待できず,極端な待遇の悪さ等によって反乱が生じても,それが全社会的な反乱と時期・打撃対象において結びつくことは困難である,5敗戦は,将校団の構成を変化させ,下士官・兵士の構成をも変化させること等によって軍を溶解させる,6勝利した革命は,民兵を正規軍に高めるか,あるいは,革命側に(相当程度妥協的に)ついた正規軍の構成を変化させ,政治的精神性において革命的な正規軍を作り上げなければ,革命を防衛できない(この点で,ワイマール共和国が国防軍に11月革命後の軍隊の処理を委ね,また,左右の反乱の鎮圧に国防軍をそのまま用いたことが批判される,これは,ローゼンベルクの著書に相当程度依存した論述と思われる(引用されている))7革命軍の創設過程については,フランス革命における旧軍の漸次的変質,ロシアにおける赤色防衛隊の赤軍への発展という,二つの対照的な過程が見られる,8いずれにせよ,旧軍将校の一部を用いることは可能であるが,政治委員・使命伝達委員制度や,フランス革命において行われた,旧軍から継続する組織と新たな市民軍組織の融合等,旧軍との断絶を保障する政策が採られなければならない,9自由と民主主義にとって脅威とならない軍隊とするためには,将校団の支配力を弱めること(兵士が人格なき道具とならないよう,軍務外では市民的な通常の生活を送ることができるようにすること),長期服役の職業制軍隊を避けること,将校団の構成を一般国民の構成に近いものとすること等が必要である,しかし,これは,軍隊を左右の革命勢力の影響が及びやすいものとするという危険をも内包するものであること,これらが主張されている。歴史的な例は,イギリス,ロシア,ドイツ,スペインが主たるものである。

1943年に出版。著者は,1897年生まれ。リデル・ハートの序文が付されている。

著者自身による1961年日本語版への序文には,軍備の発達により,正規軍に対する戦いはますます勝利の見込みのないものになっていること,他方,外国の介入又はその見込みによって国内の勢力関係だけからは敗北すると思われる革命派が勝利する場合があることが指摘されている。これまた炯眼である。

なお,著者は,スイスの軍制を度々引用して,民主主義における軍の在り方に多大の示唆を与えるものと評価する。ワイマールドイツにおける社会民主党を始めとする各勢力の軍隊政策,その主張と実践を研究する必要があろう。これこそが,コーリー,ローゼンベルクの後を継ぐこととなる。

有澤廣巳 『ワイマール共和国物語』

「物語」と題されているのは,著者が専門家でないことから自ら謙遜したものである。しかし,内容的には,ブリューニング内閣の崩壊までを詳しく追う通史となっている。19年1月蜂起の模様,特に指導者の動向,SA,SS禁止とその後の撤回をめぐる動き(結局,国防軍内の複雑な力関係とその政治への反映と考えることができる。),ヒトラーまでを簡単に扱うエピローグの部分を読むが,文献を集めて客観的で詳細な論述をするという態度が現れており,信頼がおけると同時に,資料的に参考になる。巻末に参考文献表があり,役立つ。叙述の立場としては,アイクに近い。

解題によると,著者は,1986年の学士会会長としてのあいさつにおいて,ワイマール共和国の崩壊の原因について,次のように述べたという。

すなわち,ワイマール共和国がいわば即興的に打ち出されたもので,熟慮計画されたものではなかったこと,ドイツの一般国民は,国家主義者でなくても,民主主義議会政治に対して一定の距離を置いていたこと,ベルサイユ条約が課した重荷が存在し,しかも,これらの条約にやむなく応じた政治家に対して,保守派や国家主義者から攻撃が加えられたこと,民主的なワイマール共和国が成立したが,国内の民主化は進まず,民衆の間には新風が吹き通らなかったこと,30年代初めになると議会が機能しなくなったこと,を挙げ,最後に「ワイマールは,反対派と戦って敗れたのでもなく,反対派から撃滅されたのでもない。ワイマールは自殺したという人もいる。末期のワイマールを共和派のいない共和国と評する人もいるが,共和派がいなかったわけではない。闘う共和派がいなかった。民主主義はただそのままで自ら存続しうるものではない。民主主義を守る人々によって支えられている。したがって,民主主義は,いつも闘う民主主義でなければならない。」旨述べたという。

安世舟(あんせいしゅう,との振り仮名がある) 『社会民主党史序説』

SPDが農業問題に真剣に取り組まず,資本主義の発展による分解と労働者化にゆだねる立場をとったこと(カウツキー!),農民・小市民との同盟を軽視し,あるいは,むしろ無視し,拒否原則に従う反対政党に終始したため,同盟による民主主義革命の途を自ら閉ざしたこと,これらは正当に指摘されている。

しかし,後半は,SPD右派の「マルクス主義」からの「逸脱」,「体制内化」,「社会主義革命」を「阻止」する「意図」の下における独占資本との協力,革命の「客観的条件」は存在したが,それを指導する「革命的社会主義政党」の確固たる「組織」がなかったこと(ルクセンブルクのロシア革命批判を詳論せず,これを評価しない。)など,古い紋切り型の,結局は,「裏切り」と「主体」の未成熟を標的とする指弾が繰り返される。

しかし,労働者・兵士協議会そのものが,右派を含むSPD及びUSPDの指導を望んだのであり,特に兵士協議会においてその傾向が強かった。すなわち,農民・小市民は,そして,「労働者階級」そのものも,ロシア革命の再現を,少数の「労働者」を代表すると称する独裁政党による社会の暴力的抑圧を決して望んでいなかったのである。

資本主義は,まさしく客観的に大きな発展の可能性を持っており,その「生産様式」は「廃棄」されるべきものではなかった。それは,労働者階級にも感じられていたし,SPDの幹部には当然のことであった。(カウツキーら空論的革命主義者も,行動においてはこれを前提としていた。)したがって,問題は,徹底した民主主義の実現であったが(本書も,社会主義革命が課題となっていたと断言することに躊躇を示し,一部仮定的に,民主主義革命が課題であったとしても,SPDの指導に誤りがあったと述べている-P.301。P.351は,ドイツ革命を民主主義革命としてみた場合の革命の不徹底をいう。)SPDは,そもそも農業問題等,他階級の課題に無頓着であり,民主主義革命を指導し得る能力を持たなかった。(ワイマール共和国も農地改革を行わなかった。)外交政策においても,同様に国民的課題に的確な政策を示す能力に欠けていた。

結局,これがナチスの台頭を助け,ドイツを再び戦争に向かわせたのである。エンゲルスすら「ドイツにおける革命と反革命」において批判する,あれこれの「裏切り」を指摘する態度,これによって何が生み出されるというのか。歴史の党派的解釈は,プロパガンダとしての意味しか持たない。おそらく,A.ローゼンベルクは,このような立場の対極にある。もう一度ローゼンベルクを読む必要がある。ちなみに軍国主義の弁証法との関係で注目されるのは,SPDが人民軍の創設を要求していたことである。しかし,その要求の意義は忘れられ,労働者・農民軍の創設がなすべきときになされなかった。そして,帝国軍の将校団の力を利用して,ロシア革命型の革命を目指す急進左翼の弾圧が行われた。(A.ローゼンベルク。本書も同じ指摘-P.288)ドイツの労働者階級が社会主義革命を望んでいたことを前提としない,例えば,林健太郎・ワイマール共和国の描くドイツ革命やエーベルトは,本書とは全く違うものである。林は,R.ルクセンブルクについて,大衆が自発的に革命を求め,これにより,ロシア革命におけるような暴力的抑圧を伴わない社会主義革命が可能であると信じたこと,あるいは,信じようとしたこと,その意味において幻想に生きたことを指摘し,その偶像視をいさめる。そのとおりであろう。

星乃治彦 『ナチス前夜における「抵抗」の歴史』

1930年から1932年のドイツ共産党の動きを丹念に追う。著者によれば、KPDとSPDの分裂の階級的な基盤は、被雇用労働者層の雇用維持への志向であった。このような中で、主要打撃論が主張され、KPD指導部は、テールマンを始めとして、その呪縛から逃れることはできなかった。プロイセンにおいては、SPDに反対する人民決定を支持し、ナチスと共同歩調さえとった。著者によると、これは、人民決定反対の方針が決まっていたにもかかわらず、一部の者がコミンテルンに働きかけて、決定を覆したものだという。しかし、党下部の活動家は、SPDとの共闘を志向し、実際に行動における統一、場合によっては組織的統一すら行われていた。30年から31年にかけては、これが人民革命の動きとして高まったが、結局、従来の主要打撃論に戻り、32年にはナチスの政権掌握が迫り、再びアンティファの動きとして高まったという。なお、当時、大統領選挙では、KPD支持者の相当部分がヒトラーに投票したという。革命的危機の待望論によるとのことである。著者は、福岡大学教授。東ドイツへの留学経験がある(80年代)。1955年生まれ。

目次