弁証法とは何か。別ノート「弁証法批判」から更に踏み込んで、自ら(Classicist Works)の構想の概要を積極的に明らかにしたい。
系の切断とその限界 人の認識活動の方法としての「弁証法」
December 12, 2020 ;
矛盾律や排中律は、客観的世界の法則ではなく、人の認識活動に関する法則である。それは、論理学上の規範的法則であるとともに、認識活動の存在に関わる法則である。
すなわち、認識活動は、区別と同一の識別に始まり、それらを一般化して言葉による範疇を規定する。このような活動過程において、矛盾律等が用いられるのは当然であり、それ以外の思考は現在のところ想像不可能である。運動も、矛盾律が支配する論理によって把握される。
空間的な移動は、したがって、速度という概念を規定し、物体が速度を持っているものとして把握された。亀の進んだ距離の2分の1の点にアキレスが静止しているわけではないのである。アキレスの位置は微分された無限小であり、かつ、速度という性質を持ったアキレスによって占められている。さらに速度は微分及び積分として数学的に表現されるに至った。
このような速度の概念から見れば、ゼノンの指摘する矛盾は、空間的運動において、延長を持たない無限の諸瞬間に現実の空間が分割され得るという前提に立つものであるがゆえに誤りである(空間を移動する物質との関係において現実の空間が無限の諸瞬間に分割できないことが経験的真理であることを前提とすれば、アキレスが亀を追い越すことができないと仮定した場合には、同空間を無限の諸瞬間に分割することが可能であることとなるが故に、背理法によって偽である。無限分割の不可能性は、しかし、経験的真理というほかないのであろうか。以上の論理の数学的表現が無限級数の収束ということになるのであろうか。無限の分割が不可能であるために、いかなる長さも分割された無限小において一致するということだろうか。)。
客観的世界は時間的空間的に無限であり、かつ、多様なものの連続である。人の実践は、その中から、ある限定された時空の、ある限定された系の客観的法則を把握しつつなされる。これを系の切断と称することができる。
このような系の中における活動は、その系の外部の影響を避けることができない。なぜなら、時空は無限に運動する連続性であり(パース)、すべての事物は相互に連関しつつ、運動しているからである。
これが偶然として把握される現象であり、偶然性が客観的実体、あるいは客観的事物の属性として存在するわけではない。偶然と必然は、このような人の行動の性質、すなわち、系の切断とその限界によって理解されるべきであろう。換言すれば、人の実践の有限性と客観的世界の無限性の対立が偶然を不可避のものとするのである。パースが言うチャンスは、以上のことを意味するものと思われる。
そして、客観的事物の確率的把握とは、このような系の切断を補う暫定的な認識活動にほかならない。
以上のように考察すると、矛盾とは、ある系のある概念的把握が、その系外の未知あるいは未解明の要素・法則によって妥当性を失うこと、これによって人に意識される表象である。
概念や法則の認識は、限定し、固定する活動であり、一方、人の活動は常に未知に遭遇し、それを解き明かしていく。したがって、人の認識は必然的に自己否定性を含むものと把握することができる。時空の無限の連続性と運動の中における人間的活動が矛盾を表象し、更に深い認識を求めていく。