マルトフ ロシア社会民主党史 Julius (Yuliy) Martov, History of the RSDP
ロシア社会民主党史;マールトフ(マルトフと通常表記される。),加藤一郎訳;
遂に発見されたこの書の印象を早く書き留めなければならない。入手したのは1976年初版1500部のうちの1部である。この書の内容は極めて新鮮である。
スターリン主義による歪曲に満ちたロシア革命史と社会民主党史が人々の認識をそれと知られずに歪めている。これを見ると,ロシア革命が主としてメンシェヴィキと呼ばれた人々の活動による大衆の政治化を原動力としたことがよく分かる。
マルトフは淡々と事実を語り,その時々の党の戦術を語る。そこに現れているのは,静かで公平な,しかし,情熱を秘めた,分析的な人物である。果たしてこの印象は正しいのであろうか。本書は,第1次ロシア革命が退潮に向かった1907年をもって終わっている。(その後についての(1912年までの)本当に簡単な叙述があるが,細部が欠け,理解するには不十分すぎる。)残念でならない。
この書によって考えると,ロシア革命の過程においては,三つの対抗軸があり,これらの複合がそれぞれの政治的立場に結晶し,闘われたということができるように思われる。
第1の対立は,当面の革命をブルジョア民主主義革命とみるか,それとも,連続的に社会主義革命に転化する革命とみるかである。メンシェヴィキは,生産力の水準からみて,それは,ブルジョア民主主義革命でしかあり得ず,しかも,その革命から社会主義革命までは,相当の時日を要するものとみた,民主主義革命後の資本主義の発展の時期が相当程度続くとみたのである。そして,これが正しかったことは,歴史が証明した。
現在のロシアは,一時的な反動の時期にあるのではない。(しかし,それにしても,74年もの間,ロシアは「社会主義体制」を維持したのである。夥しい流血を伴って。)
このメンシェヴィキのブルジョア民主主義革命論に対立するものとして,レーニン的な2段階革命論とパルヴス及びトロツキーの永続革命論があり,永続革命論は,社会主義革命への転化,西欧の革命による支持という論理的道筋を主張し,願望した。
ボリシェヴィキ理論においては,2段階の革命の相互関係がいささか不明瞭に思われるが,実践的には永続革命論に近いということができよう。この対立は,「ブルジョア」政党への対応における対立をも導いた。ボリシェヴィキの戦術は,いわば,これらの政党への主要打撃論であった。
第2の対立は,大衆の政治的組織化に対する態度である。メンシェヴィキは,熱心にこれに取り組んだ。ソビエトという組織形態を発見したのも,メンシェヴィキであると思われる。いずれにしても,ソビエトの形成と発展にメンシェヴィキは力を尽くした。
しかし,ボリシェヴィキは,党以外の政治組織に否定的であり,それを渋々認める場合においても,党の方針への服従を条件として主張するなどした。労働組合についても,同様の対立がみられる。
マルトフは,革命的自治組織の重要性を再三指摘している。第1次革命の一時期,政治活動の自由が相当程度存在した際,メンシェヴィキは,いち早く公然活動に主力を移行した。メンシェヴィキの構想する革命は,まずもって市民的自由と民主主義を確立するものであった。大衆の組織化とその統一的な政治的行動によりこれらを獲得すること,これこそが当面の最大の政治的目標であった。
第3の対立は,党の構成と目的である。レーニンは,陰謀家的な職業革命家集団を追求した。大衆の政治的行動は,このような革命家の結集と軍事組織の建設の目的に従属するものと考えられた。(なお,そのための「徴発」も正当であると主張した。メンシェヴィキはこれに反対した。)これに対し,メンシェヴィキは,あくまで大衆の政治的自覚と成長に力点を置いた。これがそもそも両者の分裂の直接の原因となったのである。
これらの三つの対立からロシア革命の各段階における政治的対立をみると,次のことがいえよう。
まず,トロツキー及びパルヴスは,永続革命論を主張する一方で,大衆の組織化の重視,幅広い党組織の建設という点で,メンシェヴィキに近かった。一方,レーニンは,大衆の政治的組織化の重視という点において,第1次革命の過程を通じ,メンシェヴィキに近づいた。1906年のストックホルム大会及び1907年のロンドン大会いずれにおいても,レーニンは,ボリシェヴィキ多数派に反対して,国会選挙への参加を主張している。また,レーニンの4月テーゼは,ボリシェヴィキの支配しないソビエトによる全権力の掌握を主張したものであった。
これらに関連して,実は,(マルトフの書にも,メンシェヴィキの間で論争があったことが述べられているが)第4の問題があったと思われる。すなわち,ブルジョア民主主義革命を担うべき諸階級の政治的勢力又はその決意が脆弱である場合に,労働者政党は権力を握るべきかという問題である。ボリシェヴィキの立場は,当然に握るべきであり,しかも,それを可能な限り(どのような手段によってか。これが問題であるが。)維持すべきであるというものである。
これに対するメンシェヴィキの立場は,いささかあいまいである。事態が強制するならば権力奪取を辞さないというのが表明された立場のようである(176ページ)。
おそらく,これに対する正しい答えは,現在の状況を前提に考えれば,権力を掌握して,市民的自由と民主主義を実現し,かつ,君主主義的な要素を払拭し,封建的な土地所有その他の制度を解体するが,資本主義的要素の発展により「ブルジョア」民主主義的選挙で敗北する時期が到来すれば,権力を明け渡すというものであろう。しかし,そのような展望は,仮に予想されたとしても,正面きって議論され得なかったものと思われる。いずれにしても,メンシェヴィキは,パリ・コンミューン的な敗北が予想される場合には権力を掌握してはならないと述べるにとどまったのであった。おそらく,これは,権力奪取の方法にも制約を加える考え方である。流血と暴力による権力の奪取と維持は,権力の平和的交替への道を閉ざす。それゆえに,奪取の方法は平和的でなければならなかった。
いずれにしても,政治は,単純ではない。その複雑な政治は,しかし,大衆の理解をしばしば超えてしまう。デマゴーグが大衆を動かし,悲劇的な結末がもたらされる。それでもなお,人々は,あれかこれかという考え方しかできないことが多いのである。
ロシア革命の過程を上記の三つあるいは四つの対立を軸に描くこと,これは,到底容易になし得るところではないが,まず小論から試みることは可能かもしれない。マルトフのロシア第2次革命に関する著作やその伝記はあるのだろうか(追記: 伝記については、後日後記のものを発見した)。マルトフは,レーニンと前後して,1923年に死亡した。
なお,関連して,プレハーノフという人物も興味深い。少なくとも第1次革命の間は,相当程度正しい立場に立っていたように思える。ボリシェヴィキの土地国有化のスローガンを否定し,農民の奴隷的な伝統(プレハーノフの言葉では,「国家的隷従」)を強めるものだと批判する。そのとおりであろう。市民的自由と民主主義,封建的な土地所有の解体,これらが彼の政治的目標だったのである。
I. ゲツラー、マールトフとロシア革命
April 13, 2023 ; I. ゲツラー; マールトフとロシア革命;
マルトフの政治的伝記である。マルトフがロシア社会の当面する課題を民主主義と自由を確立するための民主主義革命(「ブルジョア革命」)であるととらえ、農民(土地の国有化による農村における幻想的な共産主義の追求には反対した)はもとより、ブルジョアジーとの同盟を追求したこと(ただし、二月革命後、戦争の問題をめぐってブルジョアジーとの同盟を放棄した)、これを人民の広範な支持によって実現しようとしたこと、プロレタリアート政党は、したがって、革命によって成立する政権とは一定の距離をおくべきであると考えていたこと、それでもなお権力掌握が必要な場合は、防衛的な一時的方策としてこれをなすべきであり(一時的であることを明言していたのかどうかは確認を要する)、パリ・コンミューンの悲劇の再現を避けるべきであると考えていたこと、これらの考え方を一貫して追求したことがよく分かる。
しかし、マルトフは決然として行動すべきときに行動せず、例えばレーニンを党外に追放し得るときにこれをなさず(ボリシェヴィキによる資金調達のための強盗の実行等を理由として追放することが可能であったことを著者は示唆する)、結局、党内権力をあらゆる手段を用いて獲得し、維持しようとするレーニンに敗れた。
しかし、その不決断は、レーニンを敵とすること、これによって「原理主義的」な、「ボリシェヴィキ」を敵とし、運動を分裂させ、彼らの攻撃の標的になることを避けようとしたことによるとも考えられる。おそらくロシア社会の後進性とこれに制約されたレーニンらの、陰謀家的・ユートピア的であり、かつ、全体主義的でもある原理主義の力には抵抗し難いものがあり、真に科学的な社会民主主義はその敵ではなかったのであろう。
十月革命前におけるボリシェヴィキへの妥協的態度もこのような状況によって生まれたのであろう。そしてまた、マルトフはレーニンらへの、結局は幻想にすぎなかった、願望に支配された無益な期待から逃れられなかったようにも見える。
第8章は、十月革命後のボリシェヴィキの虐政に対する抵抗を描く。この部分は、今まで知らなかった事実も多く、新鮮である。
最終章は、マルトフが直面せざるを得なかった現実と、彼の余りにも透徹した理論と見通しとの間の悲劇的矛盾を明らかにしている。ロシア革命のその後、余りにも多数の命を奪った専制と社会主義的原始蓄積は、マルトフが見通したとおりの、あるいは彼が考えた以上の、「革命」の名によってもたらされた惨害であった。
本書は、主として、党内における、マルトフのものを含めた各種言説と行動を追跡する方法によっており、ロシア国内の革命運動におけるメンシェヴィキとボリシェヴィキの関係やメンシェヴィキの果たした役割については、さほど触れるところがない。(また、見落としがあるのかも知れないが、クロンシュタットの叛乱についても、記述がない。) これらの点の研究によりマルトフがロシア革命において果たした役割を広い視野から一層明らかにすること、これが今後の課題であろう。